霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

たったひとりで苦難に立ち向かうということ

わたしは、故郷から離れて暮らしています。

身近に古くからの友人もいませんし、家庭を中心に生活しているので、学生時代のような友だちと呼べるひともほとんどいません(一般的な近所づきあいはしています)

なので、困ったときなどに相談できるのは、主に一緒に住んでいる家族や遠方の母親ということになります。


わたしには家族もいますし、高齢ですが両親も健在なので、側(はた)からみると、孤立しているわけではありません。

しかし、今までの人生で窮地に立ったとき、本当に頼れるひとは、実際にはいませんでした。

悩みを真剣に聞いてくれ、なんとか力になろうとしてくれるひとは、いなかったのです。


母にも相談しましたが、母自身周囲に助けを求めず自分のことは自分で解決してきたため、どうしても他人に寄り添うことができないようでした。

 

 

人は、非常に孤独な存在だと、かんじました。

そして、自分を本当に理解してくれるひとは、この世にはいない、とおもいました。

まだ霊的真理をしっかり理解していなかったころです。

 

人間は、困難に遭遇すると、とてつもない孤独感をかんじます。

この世に頼れるものはない、と実感します。

 

そういうとき、わたしたちはどう行動すべきでしょうか。

どのようにして過ごすべきでしょうか。

 

 

地上的な視点では、もっと自分から働きかけて、相談できる相手を求めるべき、ということになります。

そうできるよう、近年は行政も相談窓口を設けていますし、またNPOなどの民間の団体でも相談できるところもあります。

 

また、宗教に救いを求めるケースもあります。

実際、新興宗教の信者になるひとは、悩みを抱えている場合がほとんどです。

 

宗教でなくても、霊能者にすがるひともいるでしょう。

ヒーラーであれば、霊的パワーを与えてくれますし、助言を受けることで、心の支えになってくれることもあります。

 

このように多くのひとが、自分の”外”に頼れるものを求め続けるのが一般的だといえます(あるいは、行動が起こせず、なにもせずにいるかです)

 

 

ただ、そうやって外に救いの手を差し伸べても、うまくいくとはかぎりません。

なんらかの支援は得られても、自分にとっての本当の救い、安心は、なかなか得られるものではありません。


行動を起こすこと自体は大切だとおもいます。

問題が起こったとき、なにもしないでいることは、なかなか難しいことですし、自分にできることはないかとあれこれと模索することは、自然なことだといえます。

 

しかし、自分にとっての安心を、果たして“外“(=自分以外の人間)に求めることが、本当に自分にとっていいことなのか、わたしは自分の経験から、非常に疑問におもうようになりました。

 

 

外には頼れるひとがいないとさとったとき、わたしがなにをしたのかというと、霊的真理(『シルバーバーチの霊訓』)と、スピリチュアリズム普及会の「スピリチュアリズムの思想(Ⅲ)(霊的人生論)」を何度も読みこむことでした。

そこに書かれている、「苦しみへの正しい対処」「苦しみの甘受」を必死で受け入れようとしました。


霊界の存在は信じていた(わかっていた)ので、そこに書かれている内容こそが真実である、と直観的に知っていたからです。


それから、何ヵ月もかけて、試練は人間にとってありがたいものである、地上人にとってなくてはならないものである、という霊的事実を、実感として理解するようになりました。

いまから想うと、自分の霊的覚醒が実現した貴重な時間でした。


あれから三年半ほど経ちますが、現在も悩みをかかえながら、人間にとっての試練の意義を、少しづつ自分のものとして深く学んでいる途中です。

 


真理を知ったからといって、すぐに理解して自分のものにできるわけではありません。

シルバーバーチの霊訓を愛読していても、苦の体験がなければ、なかなかその重要性に気がつかないこともあるのだそうです。

また、苦の体験によって窮地に立たされたとしても、なかなか真理をさとることができない場合もあるようです。

霊的真理を手にしていても、それを実践に移せないひとがいるのです。

 

 

現代は精神的に追い詰められているひとが大勢います。

うつ病も増え、自殺者も依然として高いままです。


殺人や強盗などの凶悪犯罪も後をたたず、物質至上主義と利己主義が日本社会にも蔓延しています。

 

その反面、マスコミやネットでは「幸せ」をアピールする行為が人目を引きます。

「健康で、金銭的に余裕があって、恵まれている人」に対する羨望はかつてないほど多くの日本人に巣食っています。

(そういうひとは、地上にはいないにもかかわらず、です。悩みを持たないひとはこの世にはいません)


地上の悲劇の一つである「精神の堕落、退廃」は、かつてないほど日本人に重くのしかかっています。


わたしたちは、この悲劇にしっかりと目を向けなければなりません。

自分に降りかかる苦難に対処するすべは、霊的真理にしかありません。この世には真に頼れるものは残念ながらないのです。


他者(家族、支援者、霊能者など)に寄りかかって、一時的な平穏を得ても、それはその場しのぎでしかなく、もしそのひとがいなくなれば、一層の絶望感に襲われます(配偶者を失って生きる気力を失うひとが大勢います)


自分の霊的覚醒が間近であれば、必ずや霊的真理に導かれるようになります。

大きな苦難に遭うということは、真理を受け入れられる状況になったということを意味している場合があります(ひとによって霊性やそのレベルが異なり、どういう困難が霊的覚醒をもたらすのかは、地上人にはわからないのだそうです)

 

まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足元に石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ、成長が得られるのです。(『シルバーバーチの霊訓」三 二章 悲しい時、苦しい時こそ)

 

地上にはなにも頼れるものがない、とさとったときこそ、魂が霊的真理を欲しているときだとおもっています。

 

2022年の振り返りと2023年の決意

2023年がはじまりました。

今年もスピリチュアリズム普及のために、昨年以上に真理の学びと実践に励もうと決意しています。


年頭にあたり、2022年を振り返って、わたしなりにまとめてみようとおもいます。


霊的な視点でみると、昨年は、イエスの地上再臨の影響が、大きく現れた年でした。

大きなニュースにはなっていませんが、2月ごろにエホバの証人関係で2世のかたのブログが話題になり、新興宗教の問題と宗教2世の問題が世に出はじめてきました。

(それ以前にも、2世のかたの発信は数多くあったようです)


そして、7月に安倍元首相が旧統一教会信者の2世によって銃弾に倒れ、社会に大きな衝撃を与えました。

事件によって、旧統一教会の巨額献金問題や2世の問題に一気に注目が集まりました。

真理からかけ離れた宗教の持つ問題点が、誰の目にもはっきりとわかるようになったといえます。


日本の宗教界に激震が走ったのが2022年でした。

(このようにいうと、あたかもイエス自身が宗教の問題を引き起こしたかのようにかんがえるかたがいるかもしれませんが、あくまでもイエスの地上再臨が及ぼした影響によって事件が発生したとかんがえるべきです。地上で起こることはすべて地上人の自由意志と因果律によって発生します)

 

 

スピリチュアリズム普及会のサイトにも、イエスの地上再臨の事実と、幽界での宗教大革命(地縛霊となっていた聖職者たちの解放)の様子が次々と発表され、多くのひとがそのことを知るようになりました。


まだ一部のスピリチュアリストを除いて、なかなか受け入れられないような内容ですが、霊的に目覚めつつあるひと(試練を経てスピリチュアリズムに導かれはじめたひと)には、必ずや魂に響く内容だとおもいます。

 

間違った宗教を信じてしまうと、この世的にも霊的にも、人間にプラスになるものはなにもありません。

 

インフォメーションNo.46
https://spiritualism.jp/information/2022/info-046.html

「霊的観点から見た統一教会の本質と実態」(スピリチュアリズム普及会)


最新のインフォメーションには、旧統一教会の教祖だった文鮮明の死後の様子が述べられています。

どのような経緯や思惑があって統一教会を興したのかは知るよしもありませんが、多くの信者に間違った教えを説き洗脳することがどれほど恐ろしいことなのか、身震いがしました。


人間は死んだからといって、すぐに霊的視野が開けあらゆることが見えてくるようになるわけではありません。生前の性格や嗜好をそのまま持って他界します。

ですから、地上時代にいかに自分の性格や生き方を変え、摂理に沿ったものにしていくことが大切になります。そして、できれば霊的真理を学び実践しておくことが、結局は自分のためになるということなのです。

(高齢でその元気がないというかたもいらっしゃるとおもいますが、この世にいる間に気力を振り絞り実行してください。死後後悔することのないように自分をコントロールしていきましょう)


インフォメーションで霊界や幽界の様子を証言した他界者は、全員、地上時代の信仰の過ちを悟り、スピリチュアリズム(唯一の正しい教え)に改宗しています。

地上にいるわたしたちは、その必死の訴えに耳を傾け、教訓としていくべきだとおもいます。

 

 

そして、スピリチュアリズムでも、普及会(スピリチュアリズム普及会)の示す教えにすがることが重要になってきます。

 

インフォメーション No.42
https://spiritualism.jp/information/2022/info-042.html

「イエスの地上再臨にともなう、幽界での“大宗教革命”」(スピリチュアリズム普及会)


昨年のインフォメーションに、このような霊の証言があります。

本当に導きがあった。そちらに通いながら確信を持った。スピリチュアリズムこそが、主流だと。主流というより唯一、源流を受け継ぐものだと。感謝してもしきれない。どうか、地上人のために、後世に続く者たちのために、踏ん張ってほしい。自分で言うのも何だが、救われた者として声を大にして言いたい。あなた方は、霊界と地上をつなぐ唯一の窓口だと。

 

普及会を通してイエスが地上再臨を果たされたという事実が、全てを物語っています。

普及会が示しているスピリチュアリズムの思想体系は、シルバーバーチの霊訓を読んでいるだけでは得られない、膨大で精緻なものとなっています。

思想体系を学べば、シルバーバーチの霊訓の全体像、意義、重要性が的確にわかります。

シルバーバーチの霊訓と思想体系をセットで理解してはじめて、霊的真理が深く魂に響いてくるのです。

 

 

2023年は、ますますスピリチュアリズムに導かれてくるかたが増えてくるとおもわれます。

そのかたがたが、イエスの主導される地上伝道に心を動かされることを願ってやみません。

わたしも、そのかたがたの礎になるべく奮闘努力をつづけていく決意です。

 

本物の読書会に導かれて

わたしは現在、東京スピリチュアリズムサークルの読書会で霊的真理を学んでいます。

今回は、読書会に参加して、志を同じくするスピリチュアリストとともに真理を学ぶことの意義について、書いてみます。

 

 

わたしがスピリチュアリズムを知ったのは、インターネットを通してでした。

体調が悪かったとき、霊的なことについて書かれているサイトにたどり着き、そこに『シルバーバーチの霊訓』のことが触れられていました。

興味を持ったので、ネットで本を二冊ほど取り寄せ、読んでみました。

シルバーバーチの霊訓』の一巻にある、「苦しみについて」に衝撃を受けました。

2017年のことです。

 

それから二年ほど、たまに思い出したように霊訓を読んだり、スピリチュアリズム普及会のサイトや、それ以外のサイトで真理について書かれているものを見ていました。

霊的なことを話せる相手もいなかったので、学ぶというよりも、ぽつぽつと知識を蓄えているような状態でした。

 

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否応なく、自分の過ちに向き合わされ、どうしたらいいのか苦悩しました。

導かれるように、『シルバーバーチの霊訓』やスピリチュアリズム普及会の思想体系を読み、心の支えとしてきました。

 

そして、自分でも真理を人に伝えたいとおもうようになったのですが、故郷から離れて生活しているため、古くからの友人もおらず、具体的になにをすべきかわからずにいました。

そのようにして半年ほど過ごしていると、実家の問題をきっかけに日本スピリチュアル・ヒーラーグループのかたから、東京スピリチュアリズム・サークルの読書会に参加してみてはどうか、というお誘いをいただきました。

 

東京スピリチュアリズム・サークルは、スピリチュアリズム普及会のメンバーのかたが主催している、シルバーバーチ読書会です。

普及会のサイトを見ればわかりますが、霊的真理の説明、スピリチュアリズムの意義、思想体系、どれを取ってみても、真理に対する姿勢や理解が一貫しており、このサイトほど詳細にスピリチュアリズムについてまとめているところはありません。

霊的なことに関心のあるひとなら、必ずや得心していただけるとおもいます。

なので、声をかけていただけたのも、なにかのご縁とおもい、読書会に参加することにしました。

 

 

最初は月に一回の読書会で、真理を学ぶのが中心でした。

自宅に帰ってから、とくに復習することもなく、家ではときどき『シルバーバーチの霊訓』を読んだりする程度で、読書会に参加するまえと変わらない意識で過ごしていました。

日常の意識の大部分は地上的なものに向けられていたとおもいます(家族の問題に気持ちが傾いていたからだいえます)

ただ、月一回の読書会だけは、なぜか参加しなければならないという義務感のようなものをかんじていました。

違和感をかんじているのならともかく、東京スピリチュアリズム・サークルの読書会はスピリチュアリズム普及会のメンバーのかたが主催している読書会です。

サイトの内容が真実とおもっているわたしにとって、そこから外れるという選択はありませんでした。

 

読書会に出て、講義を聞き、レジュメに要点をメモしました。

内容は、普及会のサイトに書かれているものとほぼ同じでしたが、耳から聞き、人間を通して流れてくる真理の内容には、単に自分の目で字面を追っているのでは得られないなにかがありました。

より深く実感をともなって真理が理解できていることが、わかるようになりました。

そうしているうち、自分自身のなかにだんだんと変化が起きはじめました。

読書会に行くのが楽しみになり、もっと学ばなければ、もっと学びたい、というおもいが強くなってきました。

 

決定的だったのが、講義発表会です。

普及会が出している霊的真理についてのビデオの一部を参加者が自分でも発表してみるという会です。

初回はまだ読書会に参加して一年も経っていなかったので、自分は発表せず、メンバーのかたの発表を聞くだけでした。

講義発表は、自分が読書会主催者になったときのことを想定して、発表の力をつけるために行われます。内容はあらかじめ決まっていて、おなじ内容をそれぞれが述べるわけですが、大学で行われているような通常の発表からみると、一見同じことを繰り返しているだけのように、おもえます。

しかし、それは全くの誤解で、霊的真理の発表においては、真理の内容を伝えたいという気持ち、話者の思いが霊界の支援や自分の内部にあるエネルギーを生み出し、たいへんな力(霊的なパワー)となって、発せられています。

つまり、霊界からの援助を肌でかんじられるようになります。

わたしは、参加しての最初の講義発表会で、その状況を目の当たりにし、かんがえが劇的に変わりました。

霊的真理を人に伝えるためには、霊界の支援が必要だと実感しました。

 

なぜなら、霊的真理の普及、スピリチュアリズムの普及は、霊界主導で行われるものだからです。地上人は地上の道具であって、主役は霊界側なのです。

真理を人に伝えるためには、地上人の力だけでは不十分で、もし我欲だけで進めば必ず道から外れてしまいます。一人だけで成せることではありません。

最終的に真理を受け入れ自分のものにしていくのは、自分一人の力で行わなければなりませんが、学んでいく過程においては、スピリチュアリズムを人生の指針にしている、おなじ意識を持つ者同士のつながりが不可欠となってきます。

シルバーバーチの交霊会に参加していたメンバーも、そのようにして霊界の支援を受け真理を学んでいました。

志を同じくする同志とともに学ぶということは、そこに人間同士の連帯が生まれ、互いに刺激し支え合う力が生まれてくるということです。

そのような環境があると、霊界からのエネルギーが注がれます。

読書会に参加するたびに、その場が霊的なエネルギーで満たされ、地上では味わえない清浄な雰囲気で覆われているのを感じることができました。

 

ここで肝心なのは、“本物の読書会に参加する”ということです。

わたしは幸い、スピリチュアリズム普及会のメンバーのかたが主催している読書会に参加することができました。

スピリチュアリズム普及会は、40年ほどまえに結成された霊的真理の普及を目的にして活動しているサークルです。シルバーバーチの霊訓に出会われてからは、一貫してその重要性を理解し、これこそが地球人類を救う真理であると、実践に努められてきた方々です。

サイトからも、その揺るぎない信念をひしひしと感じることができます。

 

東京スピリチュアリズム・サークル、大阪スピリチュアリズム・サークルにつながる読書会に参加し、そこで真理を学ぶということは、現世的な目で見れば、一読書会に参加しているだけ、サイトや書籍に載っているおなじ内容を学んでいるだけのように映りますが、霊的な観点からみれば、多大な恩恵を受けているということがわかるようになってきます。

読書会で、おなじ目的(シルバーバーチの霊訓を中心としたスピリチュアリズムの普及、全地上人の救い)をもって集っているメンバーとともに学べるということは、自分にとっての本当のよろこびとなるだけではなく、霊界の道具としての資質を磨いていることになるのです。

この地上では実現の難しい、霊的家族同士のつながりが持て、参加するごとに真理普及への意欲が増してきます。

そこに霊界からの支援がますます注がれるという、プラスの効果が生まれ、一人では決して得られることのない充実感、霊界との一体感が得られます。

そのような経験を自宅や持ち場に持ち帰り霊的実践に励むことによって、充実した毎日が送れるようになります。

 

わたしは、心の底からの満足、物的なものでは絶対に得られない安心感を感じるようになりました。

いま、一人でシルバーバーチの霊訓やスピリチュアリズムについて学んでいるというかたは、ぜひ東京か大阪の読書会、またはそれに参加しているメンバーが主催している読書会に連絡を取ってみてください。

 

エスが地上再臨を果たされた現在、霊界が主導する地球人類救済計画はいよいよ地上でもその影響力がはっきりわかるようになってきました。

今現在、幽界、地上界に霊的な大革命が起こっています。

真理とは何かをずっと模索してきたかたなら、必ず得られるものがあるとおもっています。

 


https://spiritualism.jp/spiritualism/thought3/th3-08/th3-08-8.html

スピリチュアリズムの思想[Ⅲ] 8.スピリチュアリスト・サークルづくり (8) スピリチュアリズム・サークルを単位とする霊的ネットワークの展開(スピリチュアリズム普及会)

 

https://spiritualism-tokyo.com/

東京スピリチュアリズム・サークル

https://silverbirch-kansai.com/

大阪スピリチュアリズム・サークル

 

統一教会問題が浮き彫りにした地上の宗教の問題点

今年の七月八日に起きた、旧統一教会に恨みを持つ者による安倍元首相の襲撃事件は、社会に大きな衝撃を与えました。

首相経験者だった政治家に対する警備の甘さを指摘する声も大きいものですが、なによりも、かねてから問題視されていた新興宗教にかかわる事件として、多くの日本人が注目しています。


スピリチュアリズム普及会のインフォメーションにもその問題の本質がくわしく取りあげられています。

 

インフォメーション no.45

「霊的観点から見た安倍元首相殺害事件と、統一教会の本質と教義(統一原理)の間違い」(スピリチュアリズム普及会)


統一教会のまちがいが的確に指摘されています。

霊的視点からみてどこがまちがっているのかがわかります。

地上人は物的視点からでしか問題の原因に迫れませんが、地上の問題の本質は霊的なところにあります。ですから、霊的視点から物事を見なければ、根本的な解決には至れません。

霊界人が、常に霊的観点を失わないように、と何度も教えてくれるのは、そのことがあるからでしょう。


霊的にみて、旧統一教会の最大の間違いは、その教えが真理とはかけ離れたものであることと、インフォメーションは指摘しています。

統一原理(統一教会の教義)は教祖が頭のなかで作り上げたものであり、キリスト教や東アジアで顕著な先祖信仰などを取り入れた雑多なものなのだそうです。

韓国はアジアでも有数のキリスト教徒が多い国なので、教義の中心に据えたのだろうとおもわれます。


地上視点からみて、今回の事件で注目されているのは、多額の献金を求める姿勢や霊感商法を使いモノや金を信者から巻きあげたという点です。

今回はこの点に注目して、かんがえてみたいとおもいます。

宗教が持つ問題点、地上人が抱える課題がみえてくるとおもったからです。

 

 

なぜ、多額の献金など行為が宗教の名のもとに行われたのでしょうか。

第一義的に、教団側(宗教組織の側)が求めたのはまちがいであることはいうまでもありません。

しかし、信者のほうも率先して献金を行ったという事実があります。

洗脳や半強制的な面もあったとおもいますが、わたしは、信者が自由意志で教団に貢いだということを重視したいのです。

それは、わたし自身がかつて新興宗教の団体に属していたとき、身をもって感じたことだからです。


わたしは10代後半ごろ、母親の勧めもあって崇教真光に入信しました。

母は妹の病気平癒を願いその数年まえに入信しています。


崇教真光をはじめ世界真光文明教団など、真光系の教団は手かざしによる心身の浄化を重視します。手かざしによって病気が治り健康になれると宣伝しています。


そこに、病気に苦しむ人はすがるように押し寄せます。

現代医学でも治らない、あるいは医学にかかっているのに慢性的に病気がつづく場合、医学に対する不信感が募り、“手かざしで奇跡が起き、病気が治る“と言われれば、それを期待して、信者になるのです。

そして、実際、病気が治ったりよくなったりする人が大勢います。この点がポイントで、手かざしでなんの変化もなければ信者は増えていきません。

手かざしでよい変化があるからこそ、“本物の教え“だとおもい、拠点に通うのです。

(このことについて、スピリチュアリズムの視点からみてみると、人間にもともと備わっているヒーリング能力が治癒力となって現れているのだとかんがえられます。真光では“お御霊“というペンダントのようなものを研修を受けてもらい、それをつけて手かざしをするのですが、“お御霊がなければ手かざしできない“とおもってしまうのは、そう思いこまされているからだといえます)


そうして信者となった者は、自ら率先して教団の活動に努め、献金を要求されれば言われた通りにお金を差し出すことになります。

わたしが見たかぎりでは、信者の意に反する強制はありませんでした。

ただ、そこが盲点で、教団側はそのように信者を誘導しているのであり、“自発的に献金や奉仕をさせる“ことを重視しているとおもわれます。


では、なぜ信者は“自ら信じるのか、信じたがるのか“といえば、目的ははっきりしています。

“自分や家族が救われたいから“です。

病気を治してほしい、金銭的に楽になりたい、トラブルがなくなってほしい、幸せになりたい、その一心があるからです。


つまり、この世的な幸せを手にしたくて、宗教を信じるのです。

これは真光系や新興宗教にかぎったことではなく、キリスト教、仏教、神道民族宗教、なんでも同じだとおもいます。

地上人が宗教に求めるのは、とどのつまり“ご利益“です。


もちろん宗教側も、ご利益信仰にとどまらないよう、世界平和とか、人間と自然の共存、環境保全、動物愛護など、さまざまな“つけたし“を用意していますが、結局は「わたしたちの宗教を信じれば、この世でもあの世でも救われますよ」という“餅“をかかげています。


わたしは、人が宗教にそのようなご利益を求めることを、非難はできません。

自分もかつてはそうでしたし、スピリチュアリズムを知ったのも自分の問題をなんとか解決したかったからでした。

誰もが、健康になりたい、豊かになりたい(昔なら、食べものに困らないようになりたい)、家族が仲良くいてほしいと願っています。

それ自体を咎めることができる人はいないでしょう。


しかし、宗教の問題は、そのような人間の願望につけこんだ、自分たちの宗教を大きくし他より抜きん出たいという組織のエゴにあります。組織の利己主義が個人のご利益信仰を利用しているといえます。

 

 

崇教真光では、個人の献金を奨励していました(現在はどうかは知りません)

ご奉納といい、なにかにつけて、数千円を包んで神前に捧げていました。

“救われたのだから、お返しをしなければならない“という空気が支配的でした。


広報誌(真光誌といいます)で読んだところによると、家や土地なども含め財産のほとんどを寄付した人もいたようです(救われたくて寄付したということだったかと)

教義で、“モノやお金に執着してはいけない“と説きながら、教団自体が金銭を要求するとは、矛盾以外のなにものでもありません。

 

 

このように、統一教会と同じような構図が既存の宗教には蔓延しています。


神社では、神前でのお祓いにお金が必要です。

厄祓いには数千円かかるそうです。


また、人が死んで戒名をつけるのに、院号が欲しければ、数十万円と聞いたことがあります。

新興宗教が要求する献金と、どこがちがうのかわたしには理解できません。


本来宗教は、必要以上のお金が絡むものではありません。

しかし、いつのころからか、宗教は信者に対して多額のお布施や奉納を要求してきました(大きな神社に行くと、奉納の額によって建っているもの大きさが異なるのを目の当たりにします)


新興宗教はある意味、伝統宗教が行なってきたことの真似をしているのであり、ご利益信仰を基盤にしているのは明白です。

それは、地上人の誰もが持っているこの世的な願いをくすぐって、信者を集め、勢力を拡大しようとする目的があるからなのです。

 


https://spiritualism.jp/silverbirch/philosophy/phl-13.html

シルバーバーチの霊訓の画期的な救済観」(スピリチュアリズム普及会)

 

https://spiritualism.jp/information/2022/info-044-2.html

「インフォメーション no.44-2 イエスから地上の全宗教指導者に向けてのメッセージ」(スピリチュアリズム普及会)

 

苦しみに耐えることについて

ことしの夏は例年以上の暑さでした。体調管理に大変だったかたも多いのではないでしょうか。八月下旬からは夏バテからの体調不良も起こりやすく、わたしもいつもの年以上に苦労しています。


夏の不調は、暑さにくわえて湿度も関係してきますが、その点でも日本の夏は不快指数が高く、近年ますます過酷になってきているようにおもわれます。


肉体を持っているわたしたちは、身体が痛かったり苦しかったりすると、それでもう、気力が減退し通常の活動がしにくくなってしまいます。

それは、スピリチュアリストであろうがなかろうが、神の造った摂理に従って生じることのため、霊主肉従の大変さを嫌というほどおもいしらされます。


わたしもこの1週間ばかり、夏の疲れが出たようで、自律神経の乱れからくる、のぼせや睡眠障害に悩まされました。霊的真理を知っているにもかかわらず、なんとかこの苦しみから逃れられないものかと気分が落ちこみました。


これまでの経験から霊的実践の大切さを実感しているのに、肉体を持つ苦しさに翻弄され、霊主肉従を保つことがむずかしくなりました。元気なひとを見ては、なぜ自分は辛いのかとうらやむ気持ちが芽生えたり、過去の運動不足を嘆いたりとマイナスの感情をつい持ってしまいました。その度に、はっと気づいて、なんと情けないことかと嘆く日々でした。

 

 

霊的実践のひとつに、苦しみの甘受があります。肉体をともなっている霊である地上人は宿命的に苦しみを経験するようになっています。

それは、地上人の理解がおよばないところの神の愛であって、霊的成長を成すための試練なのです(肉体という厚い壁のために霊的視点からかんがえられなくなっているのです)


一般的に、苦しみに耐えている、といえば、苦しみを我慢しているという状況です。多くのひとは、それはあえて自らを苦しみのなかに置いているだけではないかと、おもっています。

昔の行者ならともかく、現代においてそんなことをするのは、ただのマゾヒズムであるとかんがえるひともいるようで、スピリチュアリズムの苦しみへの対処の仕方を軽蔑しているような感もあります。


しかし、苦しみに耐えそれを甘んじて受け入れることそのものには、確たる目的があります。単に耐えることを目的にしているわけではありません。

この点をスピリチュアリズムをしらないかたはご存じありません。


単に耐えるだけが目的ならば、地上の宗教でもしばしば行われてきたことでした。

熱心なキリスト教徒は地上の苦しみに耐えていれば天国に行って必ず救われると教えられ、死後も地縛霊となっておなじ信仰を持つ者同士、苦しみに耐える生活をしてきました。

スピリチュアリズム普及会のインフォメーションには、そのような苦しみから救われた地縛霊の証言が多数載っていて衝撃を受けます)


しかし、スピリチュアリズムでいう、”苦しみの甘受”とはそうしたものではありません。

霊的実践において、苦しみを受け入れ耐えることは、カルマの精算という目的とともに、霊的成長の道をリセットし再出発するというその先の目的もあるのです。

 

(苦しみを受け入れるとは、医学的処置を行わないとか、トラブルに対してなにもしないということではありません。理性でかんがえ、“これが正しい“として対処することは必要なことです。地上で生じる困難にどう対処するのか、霊的視点で実践することが求められているということです)


多くの苦しみは、わたしたち自らがつくった摂理に反した行為の結果、生じています。地上に生まれてくる人間は、イエスのようなよくよくの特別なケースを除いて、大なり小なりカルマを持って生まれています(最初の地上人生の人間を除く)


わたしたちは生まれるまえに霊界で、“このカルマが霊的成長の足枷になっているから、ぜひとも地上に生まれてカルマを解消、リセットして、更なる霊的成長の道を歩みたい“と決意しました。

ですから、現在生じている苦しみの多くは、自らが課した課題であって、乗り越えることができるものなのです。


シルバーバーチは、乗り越えられない障害はない、と断言しています。

 

霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。

 

苦しんでいるあいだは、なかなか霊的視点を持ちつづけることはできませんが、挫けずに耐えていると、ふと霊的視野がひらける瞬間があります。

そのとき、自分の心のうちをじっくりとながめ、苦しみに正しく対処するよう努めれば、だんだんと気持ちが楽になってくるのを感じるでしょう。


人間の心や身体は“諸行無常“です。

このままずっと悪い状態であるはずがない、と心を強く持ち、自分で自分を救っていく姿勢が大切だとしみじみかんじています。

 

8050問題について

8050問題とは、80代(あるいは高齢)の親と50代(中高年齢層)の子どもの世帯が、社会のなかで孤立し、さまざまな問題が引き起こされている現象です。

昭和の時代までは、成人した子どもは親世帯から独立して生活を営んでいるのが一般的でした(結婚はしなくても一人暮らしをしているひとが多かった印象です)

それが、平成半ば以降、就職でうまくいかなかった、親の介護を担うようになったなど、実社会から遠ざかってしまう成人の問題が顕著化するようになりました。不登校から引きこもり、そのまま30代、40代になっても親の扶養で生活しているひとも多いようです。

そのため、生活に困窮する世帯も増加し、なかには家族のなかで暴力事件、殺人事件に発展するケースも出てきて、大きな社会問題になっています。

 

親としては子どもに働いてもらい、自力で生活してくれることを願います。(そのために、高等教育を受けさせ、塾にも通わせています)

しかし、何らかの原因で、子どもが親や社会と適切な関係を結べず、引きこもってしまうケースがあります。

 

わたしも、かつては、子どもが引きこもってしまうのではないかと心配した者です。

なぜ普通の子どもと同じようにできないのかとおもいながらも、問題を直視してこなかった過去があります。

また、わたしの妹も心身の問題をかかえながら、両親が“なんとかなる“と根拠のない希望を持ち、最近になって家庭内の問題にまで発展することになってしまいました。


これらの経験をふまえ、成人した無職の子どもをかかえるかたに、すこしでも参考になれば、とおもってこの問題を取りあげることにしました。

 

 

わたしの子どもは、幼児のころから一つのことにこだわりが強く、思春期にはいったころから、口数が激減しました。小学校のころは明るくそこそこ活動的でしたが、中学にはいると食事のとき以外は部屋に篭りきりという生活でした。

大学に進学して好きな理系科目を専攻し、一人暮らしもしましたが、就職せず、結局自宅にもどってきました。

そのころの状態はといえば、就職する気はあるものの、どうしても具体的な活動に結びつかず、本人もとても苦しかったとおもいます。

自宅にもどった段階でメンタルクリニックの診察を受け、発達障害と診断されました。そのときよかったとおもうのは、思春期から本人が“自分はなぜ人と同じようなことができないのか“と悩んでいたことがスムーズな受診につながった、ということです。


その後、単発のバイトを一年ほどつづけていましたが、新型コロナが流行しはじめるとそれもできなくなりました。

このままでは、本当に引きこもりになってしまうと案じたわたしは、ハローワークに行くことを誘い、障害者枠の採用を目指そうと提案しました。

このときも、子どもは素直に賛成してくれ、それからとんとん拍子に、問題が解決していきました(偶然とはおもえないほどスムーズでした)

現在は、障害者枠で採用されて、欠勤もせず、毎日仕事に励んでいます。


このように書くと、深刻な問題ではなかったのでは、とおもわれるかたもいらっしゃるとおもいますが、二年間ほど進展が見られなかったときは、この先どうなるのかと日々暗い気分でした。

わたしはスピリチュアリストなので、これまでのこともすべて霊的覚醒のために必要な試練だったとかんがえられるのですが、この世だけの視点で見ると、発達障害の診断が遅れたために適切なアドバイスができなかったから、と受け取られるかもしれません。事実、わたしも長いあいだ、そうやって自分を悔いてきました。

(ただ、物事は、一面からしか見られるものではなく、多面的に捉えることができます。どちらが正しいというわけではなくて、“どちらも正しい“と言えるとおもっています)

 

過去を振り返って、節目節目でどうすればよかったのか、あるいは、どう子どもにアプローチしたことが本人にとってよかったのか、かんがえてみました。

今回は、問題解決に向けてのプラスの点に注目してみます。

 

わたしが心がけたのは、反応がなくても声がけを続ける、自分自身が興味あることで子どもとも接点がある事柄を日常会話のなかで投げかける、規則正しい生活をする(させる)、外に誘う、なるべく家事を手伝ってもらう、無理強いはしない、などです(規則正しい生活をさせることについては、すこし強く言ってもいいかもしれません。その子に応じてではありますが)

行動を促すときは決して感情的にならず、理性に訴えるようにしました。たとえば家事であれば、“その家で暮らす以上なにがしかの義務が生じること、家事をすることで義務を果たせること“、です。

最初は反応が弱いかもしれません。わたしの子どももいきなり積極的に活動的にはなりませんでした。でもとにかく、あきらめず子どもと接点を持つようにしました。


また、妹の状況を見ておもうのは、親が子どもと積極的に関わろうという姿勢をみせるかどうかが重要ではないかということです。

わたしの両親は昔の人間のせいか(あるいはなんでも自分でやってこられた人間のせいか)、妹に対して、適切な手を差し伸べるという接しかたがむずかしいようでした。心情的に寄りそっておらず、将来を見越したアドバイスはしていませんでした。お金だけは残しておけば、あとはなんとかなるとかんがえていました。


たとえお金があっても、困ったときにすぐに支援が受けられるわけではありません。支援を受けるためには、各方面への説明が必要です。

両親はそのようなかんがえを巡らせることができませんでした(昭和の時代は現在のような支援がなかったからかもしれません。その意識のまま高齢になっているようです)発達障害についての知識もありませんでした。

わたしも実家に電話をするたびに、「大丈夫?」と聞いていましたが、返ってくる答えは決まって、「大丈夫、大丈夫、なんとかなるから」でした。今からおもえば、もう少し積極的にかかわったほうがよかったとおもっています(でも頑固な性格なので、遠隔ではできることは少なかったとおもいますが…)

 

同居する家族が、毎日他者と接点を持たない生活をつづけ、どうやっても変わってくれない様子を見ていると、“ずっとこのままではないか“、“いつになったら外に出てくれるのだろう“と不安になってしまいます。

でもこちらが明るく接し、アクションを起こしているといつか必ず変化するときがきます。外に出ないままの本人も、具体的にどうすればいいのか苦しんでいる場合が多いようです。そのことを理解し受け止め、行動にして表すことが大切だとおもっています。外部の支援を求めるのもいいとおもいます。

 

理性や理屈に訴えても、心に響かないかもしれません。そういうときは、相手の霊性に訴えるのです。

どんな人間も、幼児のころは、外界からの刺激に対して反応します(病気や特質によってはそれが弱いかもしれません)親や周りのひとに笑いかけていたころの子どもがその子の本質だと信じてください。


スピリチュアリズムでは、人間の本質は霊(魂)であり、霊はその性質上じっとしていられない、と教えています。つまり、人間は本来活動的な存在なのです。なんらかの理由(そのひとの置かれた環境や持って生まれたカルマなど)で活動が制限されているだけなのです。

ですから、周囲の者は、そのひとが自分で自分を変えていく手助けをしてあげる必要があります(周りのひとにとっても、自分の成長につながります)


守護霊や霊界側は、地上人がどのように行動するのかを、じっと見守っています。

現世で起こる問題は地上人自らが解決していかなければなりません。

身近な問題を先送りせず、自分自身の課題として取り組みつづければ、折につけ霊界からのインスピレーションを受けることができ、必ずよい変化に結びつくとおもっています。

 

高齢の親にどのように霊的真理を伝えるか

すこしまえのことになりますが、GWに二年ぶりに実家に帰省しました。

帰省の目的は、高齢の親の様子を見てくることと、同居している妹のことを会って確認してくることでした。

(妹は診断は受けていませんが、おそらく発達障害で、経済的にも自立して生活することができていません。二十年まえに交通事故に遭い、頭部に大きなダメージを負ったため、その後遺症が最近になって問題行動になって現れるようになりました)

 

二年まえに帰省したときも、すこし霊的真理を伝えてはいるのですが、今回はもっときちんと伝えなければ、とおもい、帰省に臨みました。

 

両親は二人とも80代です。

母は長年新興宗教の信者だったので、信仰に理解はありますが、父はほぼ無神論者です。死ねばそれで終わり、とおもっているようです。

 

あと十年もすれば、どちらかが幽界(霊界)入りするであろうことは確実なので、天寿を全うするまえにぜひとも霊的真理を知ってほしいと切に願って帰省しました。

 

 

伝えたことは、

・人は死んでも霊魂として生き続けること

・その人の霊性にふさわしい境遇に行くこと

・死ぬときは親しい人が迎えに来てくれること(そこで素直に死んだことを自覚できる)

・今の苦しみ、困難は自分に必要だから生じていること

・よって、死はその困難からの卒業であること(この世は期限のある学校、修養場であること)

・霊的真理を地上時代に知っておくことが死後も非常に大切になること

など、霊的真理のごく基本を説明しました。

 


母のほうはだいたい理解して受けいれてくれたとおもうのですが、父のほうはすぐには無理なようでした。

わたしも両手をあげて歓迎されるとはおもっていなかったので想定内ではあったのですが、霊的真理に縁遠かったひとに納得してもらうのは、とても難しいと実感しました。

 

 

しかし、これは、高齢者に限ったことではないようです。

なぜなら、多くの苦しみや難局を経験した人間でも、そのひとの霊性のレベルや性格が原因で、霊的真理に対して柔軟な対応ができないことが往々にしてあるからです。

 


高齢のかたでも、霊的真理に出会うと、“やっと自分の求めてきたものが得られた”とスピリチュアリストになるケースがあります。

また、そんなに困難といえる経験をしていなくても、若い時期にスピリチュアリズムに出会うひともいます。

 


わたしの両親の場合、二人とも戦中に生まれ、とくに父は幼い頃に自分の父親を亡くし、母親からは半分育児放棄されたような状態で育ち、子どものわたしから見ても苦労人であることがわかります。母のほうは経済的に豊かでこそありませんでしたが、両親が健在で仲がよくその意味では恵まれた家庭で育ちました。ただ、女であるということから自分が望む道を諦めざるを得ず、結婚して家庭に入り休みもなく働く人生を過ごしてきました。そして、現在、妹のことで問題を抱えています。

わたしから見ると、“こんなに苦労しているのだから今世で霊的真理を受け入れられて当然ではないか”とおもうほどです。

でも、現実的には、カルマの清算が精一杯のようで、霊的覚醒にまでは至っていません。

 


霊的真理を受け入れられるかどうかは、シルバーバーチのいうように、やはり“時期の来たひと“でないかぎり無理であり、“時期が来る“ということは、本当にひとそれぞれで地上的な見方では判断できないのだなと実感しました。

スピリチュアリズムの普及は、人間サイドの思惑とはあまり関係なく、霊界主導で行われるのだということだとおもいます。霊界からでないと、その人の真実がわからないからです。

 

 

そうはいっても、家族はいちばん身近な“霊的兄弟姉妹“ですから、その様子や苦しみを目の当たりにして、なんとかしてあげたい!とおもうのは、自然な感情です。

 

押しつけにならないように、伝えようとする相手の自由意志を侵害しないようにするのは、本当に難しいことです。でも親なので、つい自分の我欲がストレートに出てしまいます。

 


霊的真理は何ものにも代えがたい宝です。

世界中の物的な幸せや価値観をかき集めても、歯が立たないほどの価値を持っています。

 

それを知っている立場だからこそ、ともすれば傲慢な気持ちが湧いてきます。

それは地上のスピリチュアリストが乗り越えなければならない宿命なのかもしれません。

 

 

霊的真理の伝道は茨の道、とシルバーバーチもおっしゃっていたように記憶しています。

まずは、自分のなかにある“茨の道“を克服していくことが大切だと教わったようにおもいます。

 

 

https://spiritualism.jp/newsletter/1999/nl-07/nl-07-3.html

普及会のニューズレターに、配偶者の不理解について書かれたものがありました。

親や兄弟など血縁者でも通じるものがあります。

このページをよく読んで、自分の務めを果たしたいとおもっています。