霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

たったひとりで苦難に立ち向かうということ

わたしは、故郷から離れて暮らしています。

身近に古くからの友人もいませんし、家庭を中心に生活しているので、学生時代のような友だちと呼べるひともほとんどいません(一般的な近所づきあいはしています)

なので、困ったときなどに相談できるのは、主に一緒に住んでいる家族や遠方の母親ということになります。


わたしには家族もいますし、高齢ですが両親も健在なので、側(はた)からみると、孤立しているわけではありません。

しかし、今までの人生で窮地に立ったとき、本当に頼れるひとは、実際にはいませんでした。

悩みを真剣に聞いてくれ、なんとか力になろうとしてくれるひとは、いなかったのです。


母にも相談しましたが、母自身周囲に助けを求めず自分のことは自分で解決してきたため、どうしても他人に寄り添うことができないようでした。

 

 

人は、非常に孤独な存在だと、かんじました。

そして、自分を本当に理解してくれるひとは、この世にはいない、とおもいました。

まだ霊的真理をしっかり理解していなかったころです。

 

人間は、困難に遭遇すると、とてつもない孤独感をかんじます。

この世に頼れるものはない、と実感します。

 

そういうとき、わたしたちはどう行動すべきでしょうか。

どのようにして過ごすべきでしょうか。

 

 

地上的な視点では、もっと自分から働きかけて、相談できる相手を求めるべき、ということになります。

そうできるよう、近年は行政も相談窓口を設けていますし、またNPOなどの民間の団体でも相談できるところもあります。

 

また、宗教に救いを求めるケースもあります。

実際、新興宗教の信者になるひとは、悩みを抱えている場合がほとんどです。

 

宗教でなくても、霊能者にすがるひともいるでしょう。

ヒーラーであれば、霊的パワーを与えてくれますし、助言を受けることで、心の支えになってくれることもあります。

 

このように多くのひとが、自分の”外”に頼れるものを求め続けるのが一般的だといえます(あるいは、行動が起こせず、なにもせずにいるかです)

 

 

ただ、そうやって外に救いの手を差し伸べても、うまくいくとはかぎりません。

なんらかの支援は得られても、自分にとっての本当の救い、安心は、なかなか得られるものではありません。


行動を起こすこと自体は大切だとおもいます。

問題が起こったとき、なにもしないでいることは、なかなか難しいことですし、自分にできることはないかとあれこれと模索することは、自然なことだといえます。

 

しかし、自分にとっての安心を、果たして“外“(=自分以外の人間)に求めることが、本当に自分にとっていいことなのか、わたしは自分の経験から、非常に疑問におもうようになりました。

 

 

外には頼れるひとがいないとさとったとき、わたしがなにをしたのかというと、霊的真理(『シルバーバーチの霊訓』)と、スピリチュアリズム普及会の「スピリチュアリズムの思想(Ⅲ)(霊的人生論)」を何度も読みこむことでした。

そこに書かれている、「苦しみへの正しい対処」「苦しみの甘受」を必死で受け入れようとしました。


霊界の存在は信じていた(わかっていた)ので、そこに書かれている内容こそが真実である、と直観的に知っていたからです。


それから、何ヵ月もかけて、試練は人間にとってありがたいものである、地上人にとってなくてはならないものである、という霊的事実を、実感として理解するようになりました。

いまから想うと、自分の霊的覚醒が実現した貴重な時間でした。


あれから三年半ほど経ちますが、現在も悩みをかかえながら、人間にとっての試練の意義を、少しづつ自分のものとして深く学んでいる途中です。

 


真理を知ったからといって、すぐに理解して自分のものにできるわけではありません。

シルバーバーチの霊訓を愛読していても、苦の体験がなければ、なかなかその重要性に気がつかないこともあるのだそうです。

また、苦の体験によって窮地に立たされたとしても、なかなか真理をさとることができない場合もあるようです。

霊的真理を手にしていても、それを実践に移せないひとがいるのです。

 

 

現代は精神的に追い詰められているひとが大勢います。

うつ病も増え、自殺者も依然として高いままです。


殺人や強盗などの凶悪犯罪も後をたたず、物質至上主義と利己主義が日本社会にも蔓延しています。

 

その反面、マスコミやネットでは「幸せ」をアピールする行為が人目を引きます。

「健康で、金銭的に余裕があって、恵まれている人」に対する羨望はかつてないほど多くの日本人に巣食っています。

(そういうひとは、地上にはいないにもかかわらず、です。悩みを持たないひとはこの世にはいません)


地上の悲劇の一つである「精神の堕落、退廃」は、かつてないほど日本人に重くのしかかっています。


わたしたちは、この悲劇にしっかりと目を向けなければなりません。

自分に降りかかる苦難に対処するすべは、霊的真理にしかありません。この世には真に頼れるものは残念ながらないのです。


他者(家族、支援者、霊能者など)に寄りかかって、一時的な平穏を得ても、それはその場しのぎでしかなく、もしそのひとがいなくなれば、一層の絶望感に襲われます(配偶者を失って生きる気力を失うひとが大勢います)


自分の霊的覚醒が間近であれば、必ずや霊的真理に導かれるようになります。

大きな苦難に遭うということは、真理を受け入れられる状況になったということを意味している場合があります(ひとによって霊性やそのレベルが異なり、どういう困難が霊的覚醒をもたらすのかは、地上人にはわからないのだそうです)

 

まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足元に石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ、成長が得られるのです。(『シルバーバーチの霊訓」三 二章 悲しい時、苦しい時こそ)

 

地上にはなにも頼れるものがない、とさとったときこそ、魂が霊的真理を欲しているときだとおもっています。