霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

「“イエスの兵士”として人生を捧げよう!」<2>

── 特別読書会に参加してからの心境

 

前回に引き続き、2021年の「特別読書会」参加について、お伝えいたします。

 

エスが参加者に語りかけた時間は、あまり長くはありませんでしたが、会が終わった後は、軽い放心状態になりました。そして、しばらくの間、自分の身に何が起こったのかうまく理解できない日々が過ぎていきました。一カ月くらい、「自分は本当にあの場にいたのだろうか?」と半信半疑の状態でした。

 

どうしてそうした状態になったかと言えば、スピリチュアリストとしての自覚はあるものの、「自分はイエスの地上再臨に立ち合えるような内容を持っていない」と感じていたからです。

私はスピリチュアリズムに出会ってまだ数年しか経っておらず、真理の理解も実践もまだまだ未熟な段階でした。

10年、20年と真理を実践しているスピリチュアリストに比べれば、未熟さは明らかです。さまざまな失敗をし、欠点も多くあります。

ただ、これまでの人生を振り返ってみると、すべてがイエスとの出会いのためであったと感じています。霊界の導きのなかで、今に至ることができたことを実感しています。

 

私は6年ほど前に体調を崩したとき、『シルバーバーチの霊訓』に出会いました。その後、次々と家族に問題が起こり、妹の遠隔ヒーリングをお願いしたことで、東京スピリチュアリズム・サークルの読書会に導かれました。

読書会に参加したことで、真理の正しい理解が深まり、苦難をありがたいものと思えるようになってきました。そして、「特別読書会」に参加するという奇跡のような体験をしました。

 

「特別読書会」でイエスのメッセージを聞き、普及会が発表した「イエスの地上再臨」についてのインフォメーションを読むと、二千年の間、地上人の救いを願ってきたイエスの深い愛に心を打たれます。

最初は、自分にできるだろうかと自信がありませんでしたが、次第に「神とイエスのために働きたい!」「イエスの兵士として人生を捧げたい!」という思いの方が勝るようになりました。

今では、すべてを霊界にゆだねて、できるかぎり力を尽くそう、どんな困難も乗り越え、地上の同胞のために奉仕していこうと決心しています。

 

「“イエスの兵士”として人生を捧げよう!」<1>

──2021年11月の特別読書会に参加して

 

昨年(2022年)から、スピリチュアリズム普及会のサイトで、「イエスの地上再臨」が公表されはじめました。

それについて、日本のスピリチュアリズムにかかわる人、『シルバーバーチの霊訓』を愛読する人のあいだに“激震”が走っているようです。

 

「イエスが地上再臨を果たしたという話を聞いたが、果たして事実なのか?」「どうして普及会がそのようなことが言えるのか、イエスを持ち出して自分たちの権威を高めようとしているだけなのではないのか?」など、憶測が飛び交っているようです。


しかし、「イエスの地上再臨」は、まぎれもない事実です。


ただ、霊的能力のない私たち一般の地上人が、霊的次元で起きている「イエスの地上再臨」をなかなか受け入れられない(=実感としてわからない)のも、無理もないことです。

今回から何回かに分けて、私が「イエスの地上再臨」を確信するようになった体験を綴っていきたいと思います。


(「イエスの地上再臨」の説明等につきましては、スピリチュアリズム普及会のインフォメーションをご覧ください)

https://spiritualism.jp/information/list/

 

2021年の特別読書会に参加して

「イエスの地上再臨」は、2022年1月のインフォメーションNo.41で、はじめて明らかにされました。

そこに記されている「関東、関西で行われた特別読書会」(2021年11月)に、私自身も出席を許されました。

今回は、そのとき自分が感じたことを率直にお伝えしたいと思います。

 

特別読書会の会場に入ったとたん、静謐で霊的な空気が支配しているのを感じました。

すぐに、これは単なる講義集会ではないと、直感しました。

普及会の方がお話をされるにつれて、参加者もその内容に驚きつつも引きこまれていきました。

そして、壇上の普及会の方が、「イエスは今、ここにおられます」とおっしゃった瞬間、全員の意識が空白になり、圧倒されました。加えて、普及会の方を通してイエス直々に、「私のために働いてくれないか」とのお言葉をいただきました。

私は、これまで地上人が体験したことのない、奇跡のような出来事の現場に導かれることになったのです。

 

 

私は、スピリチュアリズムに出会う前は、特別イエスに対して思いを寄せていたわけではありません。キリスト教に対しても“独善的な宗教”だと反感を持っていました(キリストの名の下に数々の悲惨な戦争や歴史的事件が起こったからです)


それが、スピリチュアリズムを学ぶにつれ、イエスの真実の姿、キリスト教の間違いなどがわかり、イエスご自身が「キリスト教は私が説いた教えではない。地上からなくすべきである」と思っておられることを知りました。

スピリチュアリズムだけが、イエスの本当の教えだったのです。

特別読書会に参加する前に、そのような事実を理解していたことも、イエスの地上再臨を受け入れる素地になっていたと思います。

 

 

特別読書会で語られたイエスの言葉は、威厳と霊力に満ちていて、地球人類全員の救いを心から願う愛に溢れるものでした。

二千年前に果たせなかった神との約束を、今度こそ果たすのだという断固たる決意が感じられました。

エスは、「そのためにはどんな犠牲も厭わない」と、身をもって示してくださいました。

 

エスの地上再臨は、霊的次元で行われるもので、物質化現象ではありません。

しかし、そのとき、会場に高い霊気がみなぎっていたせいか、私にもは、壇上にいる方の背後にまばゆい光が見えました。

それではじめて、「本当にイエスが地上に再臨されたのだ」と感じました。

 

 

エスの言われた「私のために働いてくれないか」との言葉は、イエスの兵士として、イエスの配下でスピリチュアリズム普及に人生を捧げる、ということを意味しています。

そのときは、“人生を捧げる”とはどういうことなのか、具体的にはわかりませんでした。しかし、イエス再臨に立ち会った以上、「これはもう、立ち上がるしかない!」という心境でした。


エスに対してそこまで親愛の情を持っていなかった私が、そう決意したのは、魂のレベルで「イエスの地上再臨」が事実であると、納得したからだと思います。

そして、その決意は時間が経つにつれて、より強固なものになっていきました。

次回は、その経緯について記したいと思います。

 

ブログタイトル、変更のお知らせ

このたび、ブログのタイトルを変更することにいたしました。

スピリチュアリズム普及会のインフォメーション No.48 にある、「真のスピリチュアリズム」の確立を強く意識し、ブログとしてもそれに沿わせたいと思います。

 

スピリチュアリズムの進化の3段階
スピリチュアリズム普及会 インフォメーション No.48)

 

よろしくお願いいたします。

 

追記(10/8):

上に記したことに伴って、今まで書いてきた記事を整理しました。

現在載せていない内容については、新たな記事の中で取り上げることになると思います。

過去記事を検索で見つけてくださる方のために、残しているものもあります。

 

信仰について‹2›  ──信仰実践としてのスピリチュアリズム

スピリチュアリズムに出会って数年が経ち、ようやく”自分はまがりなりにもスピリチュアリストである”という自覚を持てるようになってきました。

そして、霊界の道具として、イエス率いるスピリチュアリズムの本流を地上に広めることに人生を捧げようと決意することができるようになりました。

 

すべて、これまでの困難をなんとか乗り越えてこられたからゆえの境地です。

あのとき、シルバーバーチの霊訓と普及会の思想体系にすがり、がんばって耐えて本当によかったと、おもっています。

自分を鍛えてくれた苦しみに心から感謝しています。

(もちろん現在も苦しみの甘受という真理の実践はつづいています)

 

 

スピリチュアリズム普及会のサイトには、インフォメーションがほぼ二ヶ月ごとに発表されています。

5月の内容は、真のスピリチュアリズムの確立についてでした。

 

インフォメーション No.48

https://spiritualism.jp/information/2023/info-048.html

 “古いスピリチュアリズム”から“新しいスピリチュアリズム”へ、そして「真のスピリチュアリズム」へ(スピリチュアリズムの進化の3段階)――イエスの地上再臨にともなう、「真のスピリチュアリズム」の確立

 

 

そのなかで、真のスピリチュアリズムに至る条件の一つとして、「イエスが地上再臨のために準備した『シルバーバーチの霊訓』と普及会が作りあげた“思想体系”を、正しく理解し、正しく実践する」ということが挙げられています。

 

つまり、スピリチュアリストには霊的真理の「正しい実践」が絶対に必要であるということです。

今回は、「真理の正しい実践」についてかんがえてみたいとおもいます。

 

日本は世界でもまれな『シルバーバーチの霊訓』の書籍が容易に手に入る国です。

シルバーバーチの霊訓』が三十年以上にわたって読まれ続けていて、スピリチュアリズムといえば『シルバーバーチの霊訓』という認識が定着しています。

 

一方、『シルバーバーチの霊訓』が降ろされたイギリスでは、そうではないようです。

イギリスというお国柄もあってか、心霊現象やリーディングに今も関心が高く、“心霊主義“の名の通り、霊の存在を信じてその言葉を受け入れることがスピリチュアリズムという風潮が濃厚のようです。

それは、インフォメーションで述べている「古いスピリチュアリズム」に他なりません。

 

日本でも、『シルバーバーチの霊訓』は知っていても、いまだに、亡くなった人の言葉や思いを知りたいとリーディングにこだわっていたり、心身の苦しみを取り除きたい一心でヒーリングに意識が向いている人もいます。

厳しいことですが、リーディングや身体へのヒーリングは、スピリチュアリズムの入り口に過ぎません。そこで留まっていては、先に進めなくなってしまいます。

 

シルバーバーチの霊訓』を知った以上(霊的知識を得た以上)、わたしたちにはその知識を実生活でいかすという責任が課せられます。

責任を果たせないままであれば、いつまでも苦しみがついてまわるということなのです(現在、“まだ苦しいまま“の状態であれば、生き方、考え方が摂理に反している証拠なのかもしれません)

 

 

シルバーバーチは、その霊言の中で、行為(実践)こそが重要であると繰り返し述べています。(この点を明確にしているのが、スピリチュアリズムの思想体系Ⅲです)

 

なぜ真理の実践がわたしたちにとって大切なのでしょうか。

それは、実践が神の造った摂理に沿ったものだからです。

 

摂理が宇宙の隅々にまで浸透しているからこそ、宇宙万物は存在することができ、生命体は生きていくことができます。

わたしたち人間にも摂理が働いていますが、自由意志が与えられていることによって、摂理に沿った生き方もできるし、条件付きではありますが反した生き方もできます(摂理の範囲内における“反した生き方“という意味)

 

人間が機械を作るときも、目的通りに動き、作用させるために、設計、製造しますが、それとまったく同じことが、宇宙に存在する全存在物と全生命体にも当てはまります。

神の摂理(システム)に沿えば、わたしたちは幸せを手にすることができます。しかし、自由意志を誤って用い、摂理に反してしまえば、自分自身を貶めてしまうことになります。

 

 

宇宙の隅々にまで神が偏在し、神が全宇宙を包摂し、神の摂理が運行を司っている。

このことを、理性と自由意志を使い受け入れ、信じることが、正しい信仰です。

そして、正しい信仰のもとで、摂理に沿った生き方をしていくことが、正しい実践なのです。

「正しい実践」とは、つまり、「正しい信仰実践」ということになります。

 

実践なくして、わたしたちの救いはありません。

何事もやりかたを知っていても実行しなければ身につかないのとおなじように、信仰があっても信仰実践をしていかなければ、真の幸福には至れません。

 

それどころか、真理を知っていただけのままで死後霊界(幽界)に行けば、実践していなかったという現実に直面し、大変な後悔と苦しみが生じてしまいます。

シルバーバーチは、知識には大きな責任が伴う、と述べています。

知識があり能力があるということは、それを日常生活のなかで活かしていく責任があるのです。

 

 

わたしは最近、その責任の重さをひしひしとかんじました。

家事や自分に課せられたことをこなして時間に追われていると、時間が瞬く間に経ってしまい、夕方になると焦りを覚えることがあります。

地上で生活している以上、物的なことを疎かにはできないのですが、体調がよくないときなど、仕事を果たすのが精一杯で、真理の学びもままなりません。

常に高い心境を保つことは、本当にむずかしいと実感します。

 

しかし、そのようなときこそ、奮闘努力が求められるのだと自分を叱咤激励し、霊訓を読んだり、無理のない程度に身体を動かして身辺を整えています。

 

たとえ地上の人間には見られていなくても、わたしの思念、行動のすべては霊界の人たちには知られています。

どこまで信仰実践ができているか、神と霊界の方々には、丸わかりです。

 

奮闘努力を諦めず、より摂理に沿った信仰実践を重ねるべく、これからも励んでいきたいとおもいます。

信仰について‹1›  ──知識を土台とした信仰を

信仰というと、一般的には、特定の宗教(自然宗教を含む)を信じていることをいいます。

日本人ならば神仏を拝みその加護を信じることが信心ですし、キリスト教徒なら、教会に通い神とイエスに祈ったり、聖職者の説教を聞き受け入れることが信仰だといえるでしょう。


では、スピリチュアリズムにおいて、信仰とはどういう心情を指すのでしょうか。


スピリチュアリズムを日本語に訳すと“心霊主義“になります。

スピリチュアリズムはいわゆる“信仰“ではないと一般的には考えられていて、思想・哲学の一種とみなされています。

この世での生き方、この世のあるべき姿とは直接関係ないという風潮もあります。


しかし、スピリチュアリズムの本質を深く探っていくと、スピリチュアリズムはまぎれもない信仰であることがわかります。


スピリチュアリズムにおける信仰とは、神と神の造った摂理を信じることです。

わたしたちの本当の親(霊的親)である神(大霊)の存在と、その意思と愛が全宇宙に満ちていることを信じ、神が全宇宙とそこに存在するものすべての営みを摂理を通して在らしめていることを確信することが、スピリチュアリズムにおける信仰です。


(わたしたち人間の本体・本質は“霊“です。その霊を生み出した存在が神ですから、わたしたちの本当の親は神、ということになります)

 

 

このように、従来の宗教においても、スピリチュアリズムにおいても、信仰は存在します。

となると、問題は、両者の信仰に、どんなちがいがあるのか、という点です。


スピリチュアリズムを知らない人からみると、あまりちがいはないのではないかとおもわれるかもしれません。

目に見えないものを信じるのだから、一緒だろうとおもっても不思議はありません。


しかし、両者のあいだには決定的なちがいが存在します。

それは、その信仰を受け入れるか受け入れないのか、疑いをもっていいのかどうか、ということです。


従来の宗教は、“盲信“です。

「自分たちの宗教を信じれば必ず救われるから、疑うことなく信じなさい」

伝統宗教であっても新興宗教であっても、既存の宗教(地上人が作り出した宗教)は、わたしたちに対して、こう迫ってきます。

自分たちの教えの正しさ、優位さを示し、自分たちの宗教こそが本物であると言ってきます。

そして、教線拡大を狙って、布教活動を展開しています。”ご利益”を宣伝して、金銭やお布施を要求してくるところもあります。

宗教を信じたりかかわったりしてきた人には、納得していただけるとおもいます。


既存の宗教のそのような姿勢に対し、スピリチュアリズムは、正反対の立場を取っています。まったく逆のことをわたしたちに伝えてきます。


「あなたがたの理性を使い、十分に吟味してください。信じる信じないはあなたがたの自由です。受け入れられる人だけ信じればよろしい」


わたしたちが持っている理性と自由意志は、親なる神が与えてくださった、なによりも大切な宝です。


神(大霊)は、わたしたちに自由意志を与え、神の摂理に沿った生き方をするもよし、反した生き方をするもよし、と選択の自由を授けてくれました。

現に、わたしたちはそれを行使できています。霊性によって自由が行使できる範囲はかぎられますが、決して操り人形ではありません。


人間にとって自由意志を奪われることほど苦しいことはありません。

物事を強制されると、たちまち心身に不調が出ます。


信仰も同じなのです。

盲信することを強制される信仰は、わたしたちの魂に目隠しをし、長い時間にわたって苦しみを発生させます。

ときには霊界まで持ち越し、地上時代の信仰から抜け出せなくなるという事態も生じます。


信仰は、決して強制されるものではありません。

人間の理性と自由意志を適切に使って、受け入れられるものから受け入れていくべきなのです。

 

「ですから、わたしが申し上げていることに賛成してくださらなくても、あるいはわたしが間違っている──とんでもないことを言うヤツだと、思われても一向にかまわないのです。わたしはわたしの見てきたままの真理を申し上げているだけです(中略)わたしの申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持ちは毛頭ありません(中略)わたしが獲得した知識のすべて、叡智のすべてを、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです」(『地上人類への最高の福音』)

 

シルバーバーチの霊訓に出会い、感動を覚えても、シルバーバーチの言葉を無条件で信じるならば、これまでの宗教とおなじ盲信になってしまいます。

霊的真理は多岐にわたり、簡単な真理から深い理解を要する真理まで、レベルはさまざまです。

わたしたちは、日常生活で真理を実感しながら、理解を深めていくようになっています。

それにともなって、得られる知識も増え、さらに経験を積みながら理解の実感度が高まる…そのような歩みを自由意志で行なっていきます。


自分自身の選択で知識を獲得していけば、それが信仰の土台となります。

その揺るぎない土台が、神と神の造った摂理に対する信仰を生んでいくとかんがえています。


スピリチュアリズムに出会ってまもないときは、まず、「これは本物だ!」とおもえる霊的真理を見つけてみてください。

シルバーバーチの霊訓』やスピリチュアリズム普及会がまとめあげたスピリチュアリズムの思想体系(I〜Ⅲ)を繰り返し読んでいけば、かならずいまの自分にいちばんフィットする霊的真理があるはずです。

理性を使い、本当に正しいのかどうか、自分自身で判断することが大切だとおもっています。

 

日本の文化・宗教とスピリチュアリズム

統一教会が、日本人から金銭を巻き上げる手段として、先祖があの世で苦しんでいる(それが献金することによって救われる)と信者に信じこませたことは、有名な話です(霊感商法


それは、日本人や東アジアに広くある先祖崇拝や先祖信仰がなければ、生まれてこない観念です。


今回は、日本人の心に二千年以上にわたって流れている、アニミズムシャーマニズムについてかんがえてみたいとおもいます。

 


どの民族、どの国も、自分たちの文化、風習、宗教を持っています。

一般的に都会から離れるほどその色が濃く現れますが、都会に住んでいても根深いところでは、民族の文化風習が依然として人間を支配しており、無意識のうちにわたしたちの物の見かたや考えかたを左右しています。


日本人はよく自分たちのことを、無宗教だと言いますが、決してそうではありません。

イスラム教のモスクには何の関心も示さない人であっても、伊勢神宮明治神宮などの、大きな神域を持ち、隅々まで掃き清められた境内や社には、普通以上の清らかさを感じる人が多いとおもいます。

それは、そこに、物的なものを超える清浄さを見ているからであり、宗教的な感覚があるからこそ、生まれてくるものだといえます。

(よく、神道などの自然宗教は、宗教ではないというひとがいますが、宗教とは、一神教に限らず、特定のもの、人、あるいは自然物を信じるという心情から出ているものであり、やはり宗教の一つとかんがえられます)


多くの日本人は、正月には神社仏閣に参り、願い事をしています。

詣でて神仏に手を合わせることで、ご利益があると信じているからに他なりません。


自然物や神仏に対する畏敬の念が、日本人の心の底にあるともいえるでしょう。

そのようなものに縋り、その力を自分のものとしたいとかんがえているのです。

 

先祖崇拝も、いわゆる“先祖の祟り“として、日本人の心によく浮上する観念です。


今の自分があるのは先祖がいてくれるからだ、先祖のおかげ、墓や仏壇を粗末にしてはいけない、という意識は、高齢者を中心に今でも一般的にみられるものです。


そのような意識が土壌になっているため、自分に不幸や病気などが降りかかっているとき、先祖が苦しんでいるからだと霊能者などに言われると、そうなのかもしれないとおもうようになります。

先祖崇拝という精神的土壌がなければ、生じない不安なのです。


https://times.abema.tv/articles/-/10031202

この記事によると、日本人(東アジア人)がよく陥りやすいとあります。

日本には先祖や水子の霊、祟りといったレトリックに弱いという、霊感商法が流行る土壌がある。私は元“霊能師”役の人にインタビューをしたことがあるが、信者でない人に霊言を説くのは、一緒の演技であるという。私がアメリカの国際学会でこの話をした時に、“信じられない。日本人はfoolじゃないか”と言われたが、アメリカではこのレトリックはまったく通用しないようだ

 

(欧米人はこのレトリックに騙される日本人を軽蔑しますが、その欧米人自身は、キリスト教に幼い頃から馴染んでいるので、原罪や選民思想という間違いに左右されています。人間の始祖が罪を犯したためにその子孫である現世人類は皆罪人であるという観念は、理性的にかんがえてまったくのでたらめだと、日本人ならわかります)

 

先祖崇拝のほかにも、遠い先祖を神として祀ることも一般的に行われてきました。

(豪族の祖先神など)

仏教が葬式仏教などと呼ばれて久しくなっていますが、本来先祖信仰とは無縁だった仏教が中国に伝えられた段階で、儒教的な要素が追加され、それが日本に伝わり、今日のような儀礼中心の仏教が確立されていったとかんがえられます。

(中国仏教と日本の先祖信仰が非常に相性がよかったといえます)

 

このように、日本人が育んできた精神的土壌は、古代社会に広くみられるシャーマニズムアニミズムであるということができます。


霊感商法がダメなのはともかく、先祖信仰(先祖を大切にする心)、歴史的な神社仏閣などの建造物保存への思い、山岳を対象とする信仰などは、広く日本人の心に浸透し、文化として定着しています。

このような現状を、わたしたちはどうとらえていくべきでしょうか。

スピリチュアリストとしてどのように扱っていくべきなのか、これから日本にスピリチュアリズムが広がっていくとき、どう答えたらいいのでしょうか。

 

霊的真理に照らしてとらえる

この世のものごとをとらえるとき、もっとも大切なことは、霊的視点からみるということです。

これは、スピリチュアリストでなくても、誰にとっても重要な視点です。

地上的、この世的なものの見方は、とても狭くて、本質や問題を的確に把握できないからです。


霊的にみて、もっとも排除すべきなのは、まちがった信仰です。

人間が自分たちの都合のいいようにつくった人工的な教えで、有害以外の何ものでもありません。


そのなかでまず筆頭に挙げられるのが、

・先祖の祟り、神仏の罰(ばち)、原罪

ではないでしょうか。

死んだ人間が子孫に救って欲しくて祟ったり、悪いことをすると神仏のバチがあたるなどの俗信は、霊的真理にはありません。


今苦しみが発生しているのは、ほかならぬ自分の行為の結果であり、因果律という摂理が働いたためなのです。

(低級霊が何もわからない地上人をからかうときに、霊媒を通して“先祖の祟り“などということはあるそうです。しかし、それもからかわれた地上人にも原因があるといえます)


因果律で、摂理に反した行為の責任を苦しみという形で償うことになりますが、それは、神が懲らしめてやろうとおもってそのような摂理を設けたのではなく、下がった霊性をもとにもどすために必要なものなのです。人間が懲らしめとかんじるその奥には、人間を愛する神の切なる思いがあるのです。


人間を恐怖で洗脳したり、理性を失わせ無条件で従わせる教えや風習は、たとえ長く伝えられてきた“文化“ではあっても、なくさなくてはならないものです。

 

 

次に、かんがえられるのが、

・物や人を信仰対象とすること

です。


日本人は、古代から、自然物に畏敬の念をかんじ、信仰の対象としてきました。

山岳信仰は、現代でも根強く残っている文化といえます。


雄大な山々、人間を圧倒するような巨岩などを目の当たりにすると、だれもが畏れにも似た感情を抱きます。

古代人はそこに神が宿っているとかんがえました。

そして、自然物を御神体とし、神として祀りはじめたのです。


それは、まだ人間が霊的に未熟な時代であれば、それなりに人々を結びつける場所となったでしょう。

古代には霊能者はシャーマンとして、集団の中心にいました。

霊能のない普通の人は、特別な能力を持ったシャーマンを敬っていたとおもわれます。そして、シャーマンが死ねば、神として祀られることもあったでしょう。


感嘆するような自然は、神の造化の見事さを表しています。

霊能力も、摂理によって神から与えられた能力です。


しかし、それらは神そのものではありません。


現代人は、地球、宇宙が人間と比べて、とてつもなく大きなものだと知識として知っています。

それを創造した存在が、日本のごく一部にしかすぎない山や、一人の人間と同一であるはずがありません。


人間が信仰対象とすべきなのは、全宇宙を創造した唯一の神です。


古代から大切にされてきた文化、風習であるからといって、霊的にも精神的にも格段に成長しているわたしたちが、昔とおなじ信仰を持っていてはおかしいとおもうのです。


ですから、おもいきって古い信仰から抜け出し、より真理に沿った信仰になるよう、努めていきましょう。


人間を大きくしたような神は、存在しません。

神とは、全宇宙よりも大きな存在であり、すべてを創造した偉大なる知性であり、全創造物を存在ならしめているエネルギーの根源であり、全創造物が調和をもって存在できるよう仕組み(摂理)をつくった大きな霊(大霊)です。


今は、人間の能力をちょっとでも超えると、“神“といって比喩的に使うことがありますが、本当の神とは、そんなちっぽけな存在ではありません。

人間の想像をはるかに超えたものなのです。


ただ、残念ながら、肉体を持っている(霊的に鈍くなっている)地上人は、神を実感することはできません。しかし、死んで肉体を捨て去って、霊界に入れば、実在としての神をありありと認識することができるのだそうです。

そうなる日を楽しみに待ち、現段階で示されている神の姿を深く理解していきたいとおもっています。

 


以上、スピリチュアリストとして、日本の文化・宗教、風習などをどうとらえていけばいいのか、述べてみました。

文化風習は、精神的な遺伝ともいうべきもので、わたしたちの心の奥底に流れていますが、霊的視点からみて、今の時代にそぐわず、霊的真理から外れたものは、潔く捨て去る必要があるとおもいます。


文化風習は、往々にして、既得権益と結びついていて、金銭が絡むものも少なくありません。

わたしたちは、“霊的成長にプラスになるかどうか“、“本当にその人の役に立つものであるかどうか“、理性でもって判断していくことが大切だとおもいます。

 


https://spiritualism.jp/newsletter/2003/nl-21/nl-21-2-1.html

スピリチュアリズム・ニューズレター 「先祖供養という宗教的習慣は、どのようにして成立したか」)


https://spiritualism.jp/spiritualism/thought2/th2-1/

スピリチュアリズムの思想II 神について)

 

 

たったひとりで苦難に立ち向かうということ

わたしは、故郷から離れて暮らしています。

身近に古くからの友人もいませんし、家庭を中心に生活しているので、学生時代のような友だちと呼べるひともほとんどいません(一般的な近所づきあいはしています)

なので、困ったときなどに相談できるのは、主に一緒に住んでいる家族や遠方の母親ということになります。


わたしには家族もいますし、高齢ですが両親も健在なので、側(はた)からみると、孤立しているわけではありません。

しかし、今までの人生で窮地に立ったとき、本当に頼れるひとは、実際にはいませんでした。

悩みを真剣に聞いてくれ、なんとか力になろうとしてくれるひとは、いなかったのです。


母にも相談しましたが、母自身周囲に助けを求めず自分のことは自分で解決してきたため、どうしても他人に寄り添うことができないようでした。

 

 

人は、非常に孤独な存在だと、かんじました。

そして、自分を本当に理解してくれるひとは、この世にはいない、とおもいました。

まだ霊的真理をしっかり理解していなかったころです。

 

人間は、困難に遭遇すると、とてつもない孤独感をかんじます。

この世に頼れるものはない、と実感します。

 

そういうとき、わたしたちはどう行動すべきでしょうか。

どのようにして過ごすべきでしょうか。

 

 

地上的な視点では、もっと自分から働きかけて、相談できる相手を求めるべき、ということになります。

そうできるよう、近年は行政も相談窓口を設けていますし、またNPOなどの民間の団体でも相談できるところもあります。

 

また、宗教に救いを求めるケースもあります。

実際、新興宗教の信者になるひとは、悩みを抱えている場合がほとんどです。

 

宗教でなくても、霊能者にすがるひともいるでしょう。

ヒーラーであれば、霊的パワーを与えてくれますし、助言を受けることで、心の支えになってくれることもあります。

 

このように多くのひとが、自分の”外”に頼れるものを求め続けるのが一般的だといえます(あるいは、行動が起こせず、なにもせずにいるかです)

 

 

ただ、そうやって外に救いの手を差し伸べても、うまくいくとはかぎりません。

なんらかの支援は得られても、自分にとっての本当の救い、安心は、なかなか得られるものではありません。


行動を起こすこと自体は大切だとおもいます。

問題が起こったとき、なにもしないでいることは、なかなか難しいことですし、自分にできることはないかとあれこれと模索することは、自然なことだといえます。

 

しかし、自分にとっての安心を、果たして“外“(=自分以外の人間)に求めることが、本当に自分にとっていいことなのか、わたしは自分の経験から、非常に疑問におもうようになりました。

 

 

外には頼れるひとがいないとさとったとき、わたしがなにをしたのかというと、霊的真理(『シルバーバーチの霊訓』)と、スピリチュアリズム普及会の「スピリチュアリズムの思想(Ⅲ)(霊的人生論)」を何度も読みこむことでした。

そこに書かれている、「苦しみへの正しい対処」「苦しみの甘受」を必死で受け入れようとしました。


霊界の存在は信じていた(わかっていた)ので、そこに書かれている内容こそが真実である、と直観的に知っていたからです。


それから、何ヵ月もかけて、試練は人間にとってありがたいものである、地上人にとってなくてはならないものである、という霊的事実を、実感として理解するようになりました。

いまから想うと、自分の霊的覚醒が実現した貴重な時間でした。


あれから三年半ほど経ちますが、現在も悩みをかかえながら、人間にとっての試練の意義を、少しづつ自分のものとして深く学んでいる途中です。

 


真理を知ったからといって、すぐに理解して自分のものにできるわけではありません。

シルバーバーチの霊訓を愛読していても、苦の体験がなければ、なかなかその重要性に気がつかないこともあるのだそうです。

また、苦の体験によって窮地に立たされたとしても、なかなか真理をさとることができない場合もあるようです。

霊的真理を手にしていても、それを実践に移せないひとがいるのです。

 

 

現代は精神的に追い詰められているひとが大勢います。

うつ病も増え、自殺者も依然として高いままです。


殺人や強盗などの凶悪犯罪も後をたたず、物質至上主義と利己主義が日本社会にも蔓延しています。

 

その反面、マスコミやネットでは「幸せ」をアピールする行為が人目を引きます。

「健康で、金銭的に余裕があって、恵まれている人」に対する羨望はかつてないほど多くの日本人に巣食っています。

(そういうひとは、地上にはいないにもかかわらず、です。悩みを持たないひとはこの世にはいません)


地上の悲劇の一つである「精神の堕落、退廃」は、かつてないほど日本人に重くのしかかっています。


わたしたちは、この悲劇にしっかりと目を向けなければなりません。

自分に降りかかる苦難に対処するすべは、霊的真理にしかありません。この世には真に頼れるものは残念ながらないのです。


他者(家族、支援者、霊能者など)に寄りかかって、一時的な平穏を得ても、それはその場しのぎでしかなく、もしそのひとがいなくなれば、一層の絶望感に襲われます(配偶者を失って生きる気力を失うひとが大勢います)


自分の霊的覚醒が間近であれば、必ずや霊的真理に導かれるようになります。

大きな苦難に遭うということは、真理を受け入れられる状況になったということを意味している場合があります(ひとによって霊性やそのレベルが異なり、どういう困難が霊的覚醒をもたらすのかは、地上人にはわからないのだそうです)

 

まだまだ地上の人類は、悲しみ、苦しみ、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。ご自分の人生を振り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりと寛ぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足元に石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ、成長が得られるのです。(『シルバーバーチの霊訓」三 二章 悲しい時、苦しい時こそ)

 

地上にはなにも頼れるものがない、とさとったときこそ、魂が霊的真理を欲しているときだとおもっています。