霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

「スピリチュアリズムの中にこそ、本物の信仰がある!」

私は10代の終わり頃に、先に入信していた母の勧めで、崇教真光に入信しました。それから何年かブランクはありましたが、30代前半まで、真光の信者として過ごしました。崇教真光という宗教団体は、全国に拠点があり、手かざしを行う新興宗教の中でも信者が多いことで知られています。神道色が強く、日本人のアイデンディティをくすぐる教義を持ち、手かざしによる“お清め”で霊障の解消を謳っています。


入信していた頃は、教団の言うことをほぼ信じていました。手かざしでいろいろな変化があったり、手かざしでの霊動を目の当たりにしたことがあったからです。霊感のない私は、そのことに衝撃を受け、「この宗教は本物だ!」と思ってしまいました。


しかし、強く違和感を持ったことがあります。それは、真吼え(まぼえ)という真光の布教活動です。信者は、伝道活動をするように教団から指示されます。「火の洗礼期を乗り越え、地上天国を築くためには、真光の教えを広めなくてはいけない。そのために一人でも多く、真光へと導くことが大切だ」と教えられました。私は真光の信者ではあっても、人に勧めるのがとても苦手でした。信仰を押し付けていると思ったからです。


教団に属している限り、自由で自発的な信仰はできませんでした。わからないことがあっても明確な答えを示してくれることもなく、信者であれば教義を受け入れて当たり前という雰囲気でした。

また、金銭を要求されることにも疑問を持ち始めました。入信当初は、少額でいいと言われましたが、拠点に通うようになると、さまざまなことで献金を促されました。「神様のため」「立派な神殿を造るため」と言われれば、多少の疑問は吹き飛んでしまいます。

次第に私は、そんな半強制的な信仰に嫌気がさし、拠点に行くのを止めました。組織に属して信仰するのは、もうこりごりだと感じました。

 

それから二十数年が経ち、現在私は、東京スピリチュアリズム・サークルで、スピリチュアリズムを学んでいます。『シルバーバーチの霊訓』を知ったばかりの頃は、真光での体験もあって、一人で学んでいこうと思っていました。しかし、妹への遠隔ヒーリングをしていただいたことがきっかけで、東京スピリチュアリズム・サークルに導かれました。


その中で気づいたことは、スピリチュアリズムには、真光で過ごしていたときのような半強制的な活動や指示が一切ないということです。上からの圧力や、メンバー同士の同調圧力のようなものが、本物のスピリチュアリズムにはまったくないのです。学べば学ぶほど、「もっと深く知りたい! 信仰を深めたい!」という欲求が自然に湧いてきます。魂のレベルでの反発が一切ない信仰、これは地上の宗教ではあり得ないことだと思います。


そして私は、霊的真理を深く学び自ら実践していくことによって、神と神が造られた摂理に対してだんだんと信仰を持てるようになりました。真光を信仰しているときは全く感じられなかった霊的な充実感が得られたのです。数年間の学びによって、自発的な信仰を持てるようになり、救いへの道が開かれました。


疑問を持ちながらも地上の宗教に囚われている方には、ぜひスピリチュアリズムを学んでいただきたいと願っています。「本物の教えとは、これだったのだ」と、心から納得していただきたいと思っています。


地上の宗教を信仰している人が求めてやまない“霊的救い”は、スピリチュアリズムの中にしかありません。宗教を信じてきた人だからこそ、スピリチュアリズムの説く霊的真理の正しさを見抜くことができると確信しています。

 

「イエスが完成に導いたスピリチュアリズムの思想体系」

これまで、2回に渡って、2021年の特別読書会参加の体験について綴りました。

そこでは、地上に再臨されたイエスと直接対面し、「イエスの地上再臨」が事実であるということを受け入れるまでについてまとめました。


今回は視点を変えて、「スピリチュアリズム普及会にイエスが再臨されたこと」に、私が心から納得しているということを、お伝えしようと思います。

 


日本のスピリチュアリストで、「スピリチュアリズム普及会」を知らない人は、ほとんどいないでしょう。

スピリチュアリズムを日本に根付かせるために、40年以上も純粋なボランティアとして活動されてきました。

私が普及会を知ったのは数年前ですが、ホームページを読めば読むほど、その情報量の多さと正確さに驚きました。

そのとき私は試練の最中にあって、確たる霊的な指針を求めていました。

スピリチュアリズムに関するさまざまなサイトやブログをすがるように読みましたが、普及会のホームページほど、心の底から得心できるところはありませんでした。

霊的人生論(スピリチュアリズムの思想Ⅲ)には、確かに厳しいことも述べられています。耳が痛いことも指摘されています。甘いことは一切書かれていません。箇所によっては『シルバーバーチの霊訓』以上の厳しさです。

しかし私は、だからこそ「真実だ」と感じました。


地上人が自分の頭だけで作り上げた思想や宗教教義には、どこかしら納得できないものがありますが、普及会が作り上げたスピリチュアリズムの思想体系には、理性を反発させるものがありません。疑問は湧いてきても、否定的な気持ちになることがないのです。


また、普及会の方々が示してこられた純粋な奉仕精神、膨大なスピリチュアリズムの知識、スピリチュアルヒーリングのボランティア活動、どれをとっても、他のスピリチュアリズム関係の団体やグループ、スピリチュアリズム以外の宗教組織から受ける印象を圧倒しています。

現に、普及会以外のスピリチュアリストのグループが、思想体系やニューズレターなどを使って、スピリチュアリズムの学習を行っています。

内容が『シルバーバーチの霊訓』と矛盾しないものであると、考えているからではないでしょうか。

 


私は幸い、イエスが地上再臨をする前に、思想体系の重要性に気づくことができました。ですから、「スピリチュアリズム普及会に、イエスが再臨された」ということに対して、「再臨されるのならば、普及会以外にはない」と確信しています。


「なぜ普及会に再臨したのか」という点にこだわっている外部のスピリチュアリストには、今一度、ホームページの内容や普及会が行ってこられた活動を冷静に捉えていただきたいと思っています。

そして、思想体系を完成させるべく普及会に働きかけたイエスに思いを馳せてください。人類の救済を心から願うイエスの愛を感じていただきたいのです。

 

「“イエスの兵士”として人生を捧げよう!」<2>

── 特別読書会に参加してからの心境

 

前回に引き続き、2021年の「特別読書会」参加について、お伝えいたします。

 

エスが参加者に語りかけた時間は、あまり長くはありませんでしたが、会が終わった後は、軽い放心状態になりました。そして、しばらくの間、自分の身に何が起こったのかうまく理解できない日々が過ぎていきました。一カ月くらい、「自分は本当にあの場にいたのだろうか?」と半信半疑の状態でした。

 

どうしてそうした状態になったかと言えば、スピリチュアリストとしての自覚はあるものの、「自分はイエスの地上再臨に立ち合えるような内容を持っていない」と感じていたからです。

私はスピリチュアリズムに出会ってまだ数年しか経っておらず、真理の理解も実践もまだまだ未熟な段階でした。

10年、20年と真理を実践しているスピリチュアリストに比べれば、未熟さは明らかです。さまざまな失敗をし、欠点も多くあります。

ただ、これまでの人生を振り返ってみると、すべてがイエスとの出会いのためであったと感じています。霊界の導きのなかで、今に至ることができたことを実感しています。

 

私は6年ほど前に体調を崩したとき、『シルバーバーチの霊訓』に出会いました。その後、次々と家族に問題が起こり、妹の遠隔ヒーリングをお願いしたことで、東京スピリチュアリズム・サークルの読書会に導かれました。

読書会に参加したことで、真理の正しい理解が深まり、苦難をありがたいものと思えるようになってきました。そして、「特別読書会」に参加するという奇跡のような体験をしました。

 

「特別読書会」でイエスのメッセージを聞き、普及会が発表した「イエスの地上再臨」についてのインフォメーションを読むと、二千年の間、地上人の救いを願ってきたイエスの深い愛に心を打たれます。

最初は、自分にできるだろうかと自信がありませんでしたが、次第に「神とイエスのために働きたい!」「イエスの兵士として人生を捧げたい!」という思いの方が勝るようになりました。

今では、すべてを霊界にゆだねて、できるかぎり力を尽くそう、どんな困難も乗り越え、地上の同胞のために奉仕していこうと決心しています。

 

「“イエスの兵士”として人生を捧げよう!」<1>

──2021年11月の特別読書会に参加して

 

昨年(2022年)から、スピリチュアリズム普及会のサイトで、「イエスの地上再臨」が公表されはじめました。

それについて、日本のスピリチュアリズムにかかわる人、『シルバーバーチの霊訓』を愛読する人のあいだに“激震”が走っているようです。

 

「イエスが地上再臨を果たしたという話を聞いたが、果たして事実なのか?」「どうして普及会がそのようなことが言えるのか、イエスを持ち出して自分たちの権威を高めようとしているだけなのではないのか?」など、憶測が飛び交っているようです。


しかし、「イエスの地上再臨」は、まぎれもない事実です。


ただ、霊的能力のない私たち一般の地上人が、霊的次元で起きている「イエスの地上再臨」をなかなか受け入れられない(=実感としてわからない)のも、無理もないことです。

今回から何回かに分けて、私が「イエスの地上再臨」を確信するようになった体験を綴っていきたいと思います。


(「イエスの地上再臨」の説明等につきましては、スピリチュアリズム普及会のインフォメーションをご覧ください)

https://spiritualism.jp/information/list/

 

2021年の特別読書会に参加して

「イエスの地上再臨」は、2022年1月のインフォメーションNo.41で、はじめて明らかにされました。

そこに記されている「関東、関西で行われた特別読書会」(2021年11月)に、私自身も出席を許されました。

今回は、そのとき自分が感じたことを率直にお伝えしたいと思います。

 

特別読書会の会場に入ったとたん、静謐で霊的な空気が支配しているのを感じました。

すぐに、これは単なる講義集会ではないと、直感しました。

普及会の方がお話をされるにつれて、参加者もその内容に驚きつつも引きこまれていきました。

そして、壇上の普及会の方が、「イエスは今、ここにおられます」とおっしゃった瞬間、全員の意識が空白になり、圧倒されました。加えて、普及会の方を通してイエス直々に、「私のために働いてくれないか」とのお言葉をいただきました。

私は、これまで地上人が体験したことのない、奇跡のような出来事の現場に導かれることになったのです。

 

 

私は、スピリチュアリズムに出会う前は、特別イエスに対して思いを寄せていたわけではありません。キリスト教に対しても“独善的な宗教”だと反感を持っていました(キリストの名の下に数々の悲惨な戦争や歴史的事件が起こったからです)


それが、スピリチュアリズムを学ぶにつれ、イエスの真実の姿、キリスト教の間違いなどがわかり、イエスご自身が「キリスト教は私が説いた教えではない。地上からなくすべきである」と思っておられることを知りました。

スピリチュアリズムだけが、イエスの本当の教えだったのです。

特別読書会に参加する前に、そのような事実を理解していたことも、イエスの地上再臨を受け入れる素地になっていたと思います。

 

 

特別読書会で語られたイエスの言葉は、威厳と霊力に満ちていて、地球人類全員の救いを心から願う愛に溢れるものでした。

二千年前に果たせなかった神との約束を、今度こそ果たすのだという断固たる決意が感じられました。

エスは、「そのためにはどんな犠牲も厭わない」と、身をもって示してくださいました。

 

エスの地上再臨は、霊的次元で行われるもので、物質化現象ではありません。

しかし、そのとき、会場に高い霊気がみなぎっていたせいか、私にもは、壇上にいる方の背後にまばゆい光が見えました。

それではじめて、「本当にイエスが地上に再臨されたのだ」と感じました。

 

 

エスの言われた「私のために働いてくれないか」との言葉は、イエスの兵士として、イエスの配下でスピリチュアリズム普及に人生を捧げる、ということを意味しています。

そのときは、“人生を捧げる”とはどういうことなのか、具体的にはわかりませんでした。しかし、イエス再臨に立ち会った以上、「これはもう、立ち上がるしかない!」という心境でした。


エスに対してそこまで親愛の情を持っていなかった私が、そう決意したのは、魂のレベルで「イエスの地上再臨」が事実であると、納得したからだと思います。

そして、その決意は時間が経つにつれて、より強固なものになっていきました。

次回は、その経緯について記したいと思います。

 

ブログタイトル、変更のお知らせ

このたび、ブログのタイトルを変更することにいたしました。

スピリチュアリズム普及会のインフォメーション No.48 にある、「真のスピリチュアリズム」の確立を強く意識し、ブログとしてもそれに沿わせたいと思います。

 

スピリチュアリズムの進化の3段階
スピリチュアリズム普及会 インフォメーション No.48)

 

よろしくお願いいたします。

 

追記(10/8):

上に記したことに伴って、今まで書いてきた記事を整理しました。

現在載せていない内容については、新たな記事の中で取り上げることになると思います。

過去記事を検索で見つけてくださる方のために、残しているものもあります。

 

信仰について‹2›  ──信仰実践としてのスピリチュアリズム

スピリチュアリズムに出会って数年が経ち、ようやく”自分はまがりなりにもスピリチュアリストである”という自覚を持てるようになってきました。

そして、霊界の道具として、イエス率いるスピリチュアリズムの本流を地上に広めることに人生を捧げようと決意することができるようになりました。

 

すべて、これまでの困難をなんとか乗り越えてこられたからゆえの境地です。

あのとき、シルバーバーチの霊訓と普及会の思想体系にすがり、がんばって耐えて本当によかったと、おもっています。

自分を鍛えてくれた苦しみに心から感謝しています。

(もちろん現在も苦しみの甘受という真理の実践はつづいています)

 

 

スピリチュアリズム普及会のサイトには、インフォメーションがほぼ二ヶ月ごとに発表されています。

5月の内容は、真のスピリチュアリズムの確立についてでした。

 

インフォメーション No.48

https://spiritualism.jp/information/2023/info-048.html

 “古いスピリチュアリズム”から“新しいスピリチュアリズム”へ、そして「真のスピリチュアリズム」へ(スピリチュアリズムの進化の3段階)――イエスの地上再臨にともなう、「真のスピリチュアリズム」の確立

 

 

そのなかで、真のスピリチュアリズムに至る条件の一つとして、「イエスが地上再臨のために準備した『シルバーバーチの霊訓』と普及会が作りあげた“思想体系”を、正しく理解し、正しく実践する」ということが挙げられています。

 

つまり、スピリチュアリストには霊的真理の「正しい実践」が絶対に必要であるということです。

今回は、「真理の正しい実践」についてかんがえてみたいとおもいます。

 

日本は世界でもまれな『シルバーバーチの霊訓』の書籍が容易に手に入る国です。

シルバーバーチの霊訓』が三十年以上にわたって読まれ続けていて、スピリチュアリズムといえば『シルバーバーチの霊訓』という認識が定着しています。

 

一方、『シルバーバーチの霊訓』が降ろされたイギリスでは、そうではないようです。

イギリスというお国柄もあってか、心霊現象やリーディングに今も関心が高く、“心霊主義“の名の通り、霊の存在を信じてその言葉を受け入れることがスピリチュアリズムという風潮が濃厚のようです。

それは、インフォメーションで述べている「古いスピリチュアリズム」に他なりません。

 

日本でも、『シルバーバーチの霊訓』は知っていても、いまだに、亡くなった人の言葉や思いを知りたいとリーディングにこだわっていたり、心身の苦しみを取り除きたい一心でヒーリングに意識が向いている人もいます。

厳しいことですが、リーディングや身体へのヒーリングは、スピリチュアリズムの入り口に過ぎません。そこで留まっていては、先に進めなくなってしまいます。

 

シルバーバーチの霊訓』を知った以上(霊的知識を得た以上)、わたしたちにはその知識を実生活でいかすという責任が課せられます。

責任を果たせないままであれば、いつまでも苦しみがついてまわるということなのです(現在、“まだ苦しいまま“の状態であれば、生き方、考え方が摂理に反している証拠なのかもしれません)

 

 

シルバーバーチは、その霊言の中で、行為(実践)こそが重要であると繰り返し述べています。(この点を明確にしているのが、スピリチュアリズムの思想体系Ⅲです)

 

なぜ真理の実践がわたしたちにとって大切なのでしょうか。

それは、実践が神の造った摂理に沿ったものだからです。

 

摂理が宇宙の隅々にまで浸透しているからこそ、宇宙万物は存在することができ、生命体は生きていくことができます。

わたしたち人間にも摂理が働いていますが、自由意志が与えられていることによって、摂理に沿った生き方もできるし、条件付きではありますが反した生き方もできます(摂理の範囲内における“反した生き方“という意味)

 

人間が機械を作るときも、目的通りに動き、作用させるために、設計、製造しますが、それとまったく同じことが、宇宙に存在する全存在物と全生命体にも当てはまります。

神の摂理(システム)に沿えば、わたしたちは幸せを手にすることができます。しかし、自由意志を誤って用い、摂理に反してしまえば、自分自身を貶めてしまうことになります。

 

 

宇宙の隅々にまで神が偏在し、神が全宇宙を包摂し、神の摂理が運行を司っている。

このことを、理性と自由意志を使い受け入れ、信じることが、正しい信仰です。

そして、正しい信仰のもとで、摂理に沿った生き方をしていくことが、正しい実践なのです。

「正しい実践」とは、つまり、「正しい信仰実践」ということになります。

 

実践なくして、わたしたちの救いはありません。

何事もやりかたを知っていても実行しなければ身につかないのとおなじように、信仰があっても信仰実践をしていかなければ、真の幸福には至れません。

 

それどころか、真理を知っていただけのままで死後霊界(幽界)に行けば、実践していなかったという現実に直面し、大変な後悔と苦しみが生じてしまいます。

シルバーバーチは、知識には大きな責任が伴う、と述べています。

知識があり能力があるということは、それを日常生活のなかで活かしていく責任があるのです。

 

 

わたしは最近、その責任の重さをひしひしとかんじました。

家事や自分に課せられたことをこなして時間に追われていると、時間が瞬く間に経ってしまい、夕方になると焦りを覚えることがあります。

地上で生活している以上、物的なことを疎かにはできないのですが、体調がよくないときなど、仕事を果たすのが精一杯で、真理の学びもままなりません。

常に高い心境を保つことは、本当にむずかしいと実感します。

 

しかし、そのようなときこそ、奮闘努力が求められるのだと自分を叱咤激励し、霊訓を読んだり、無理のない程度に身体を動かして身辺を整えています。

 

たとえ地上の人間には見られていなくても、わたしの思念、行動のすべては霊界の人たちには知られています。

どこまで信仰実践ができているか、神と霊界の方々には、丸わかりです。

 

奮闘努力を諦めず、より摂理に沿った信仰実践を重ねるべく、これからも励んでいきたいとおもいます。

信仰について‹1›  ──知識を土台とした信仰を

信仰というと、一般的には、特定の宗教(自然宗教を含む)を信じていることをいいます。

日本人ならば神仏を拝みその加護を信じることが信心ですし、キリスト教徒なら、教会に通い神とイエスに祈ったり、聖職者の説教を聞き受け入れることが信仰だといえるでしょう。


では、スピリチュアリズムにおいて、信仰とはどういう心情を指すのでしょうか。


スピリチュアリズムを日本語に訳すと“心霊主義“になります。

スピリチュアリズムはいわゆる“信仰“ではないと一般的には考えられていて、思想・哲学の一種とみなされています。

この世での生き方、この世のあるべき姿とは直接関係ないという風潮もあります。


しかし、スピリチュアリズムの本質を深く探っていくと、スピリチュアリズムはまぎれもない信仰であることがわかります。


スピリチュアリズムにおける信仰とは、神と神の造った摂理を信じることです。

わたしたちの本当の親(霊的親)である神(大霊)の存在と、その意思と愛が全宇宙に満ちていることを信じ、神が全宇宙とそこに存在するものすべての営みを摂理を通して在らしめていることを確信することが、スピリチュアリズムにおける信仰です。


(わたしたち人間の本体・本質は“霊“です。その霊を生み出した存在が神ですから、わたしたちの本当の親は神、ということになります)

 

 

このように、従来の宗教においても、スピリチュアリズムにおいても、信仰は存在します。

となると、問題は、両者の信仰に、どんなちがいがあるのか、という点です。


スピリチュアリズムを知らない人からみると、あまりちがいはないのではないかとおもわれるかもしれません。

目に見えないものを信じるのだから、一緒だろうとおもっても不思議はありません。


しかし、両者のあいだには決定的なちがいが存在します。

それは、その信仰を受け入れるか受け入れないのか、疑いをもっていいのかどうか、ということです。


従来の宗教は、“盲信“です。

「自分たちの宗教を信じれば必ず救われるから、疑うことなく信じなさい」

伝統宗教であっても新興宗教であっても、既存の宗教(地上人が作り出した宗教)は、わたしたちに対して、こう迫ってきます。

自分たちの教えの正しさ、優位さを示し、自分たちの宗教こそが本物であると言ってきます。

そして、教線拡大を狙って、布教活動を展開しています。”ご利益”を宣伝して、金銭やお布施を要求してくるところもあります。

宗教を信じたりかかわったりしてきた人には、納得していただけるとおもいます。


既存の宗教のそのような姿勢に対し、スピリチュアリズムは、正反対の立場を取っています。まったく逆のことをわたしたちに伝えてきます。


「あなたがたの理性を使い、十分に吟味してください。信じる信じないはあなたがたの自由です。受け入れられる人だけ信じればよろしい」


わたしたちが持っている理性と自由意志は、親なる神が与えてくださった、なによりも大切な宝です。


神(大霊)は、わたしたちに自由意志を与え、神の摂理に沿った生き方をするもよし、反した生き方をするもよし、と選択の自由を授けてくれました。

現に、わたしたちはそれを行使できています。霊性によって自由が行使できる範囲はかぎられますが、決して操り人形ではありません。


人間にとって自由意志を奪われることほど苦しいことはありません。

物事を強制されると、たちまち心身に不調が出ます。


信仰も同じなのです。

盲信することを強制される信仰は、わたしたちの魂に目隠しをし、長い時間にわたって苦しみを発生させます。

ときには霊界まで持ち越し、地上時代の信仰から抜け出せなくなるという事態も生じます。


信仰は、決して強制されるものではありません。

人間の理性と自由意志を適切に使って、受け入れられるものから受け入れていくべきなのです。

 

「ですから、わたしが申し上げていることに賛成してくださらなくても、あるいはわたしが間違っている──とんでもないことを言うヤツだと、思われても一向にかまわないのです。わたしはわたしの見てきたままの真理を申し上げているだけです(中略)わたしの申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持ちは毛頭ありません(中略)わたしが獲得した知識のすべて、叡智のすべてを、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです」(『地上人類への最高の福音』)

 

シルバーバーチの霊訓に出会い、感動を覚えても、シルバーバーチの言葉を無条件で信じるならば、これまでの宗教とおなじ盲信になってしまいます。

霊的真理は多岐にわたり、簡単な真理から深い理解を要する真理まで、レベルはさまざまです。

わたしたちは、日常生活で真理を実感しながら、理解を深めていくようになっています。

それにともなって、得られる知識も増え、さらに経験を積みながら理解の実感度が高まる…そのような歩みを自由意志で行なっていきます。


自分自身の選択で知識を獲得していけば、それが信仰の土台となります。

その揺るぎない土台が、神と神の造った摂理に対する信仰を生んでいくとかんがえています。


スピリチュアリズムに出会ってまもないときは、まず、「これは本物だ!」とおもえる霊的真理を見つけてみてください。

シルバーバーチの霊訓』やスピリチュアリズム普及会がまとめあげたスピリチュアリズムの思想体系(I〜Ⅲ)を繰り返し読んでいけば、かならずいまの自分にいちばんフィットする霊的真理があるはずです。

理性を使い、本当に正しいのかどうか、自分自身で判断することが大切だとおもっています。