霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

人は変わることができる

ここ二週間のあいだで、自分のかんがえが大きく変わることがありました。


きっかけは、大学入試共通テストが実施される日、名古屋の男子高校生が東京大学まえで無差別に人を切りつけた事件でした。

その高校生が名門校に在籍し、非常に優秀であること、東大の医学部を目指し医師を志していたこと、などが報道されました。


社会一般には、医師は高収入で生活には困ることがない、とおもわれている面があり、医師の子どもが医師になるのも当然とする風潮があります。


以下、事件そのものについては、ほとんど関係がありません。

“優秀だから医師を志望する、医師になる“といった、多くのひとが抱いている一般的なイメージ、観念について述べています。

 

 

医師になるには、高い学力が必要とされます。

人間の身体を診るのですから、膨大な知識と豊かな知力がいるのは当然です。

ただ、医師のなかには、人をおもいやる人間性に欠けた医師、あるいはそれが表面に出てこない医師がいるのも現実です(医師といえども人間なので、この点については、他の職業とほとんど変わりがないのだということになります)


一方、診てもらう側としては、やはり医師におもいやりも求めてしまいます。

つらいときだからこそ、優しく寄り添ってほしいとおもいます。

そのために、医師に人間性あふれる性質を期待してしまうのであり、“優秀だからという理由だけで医師になってほしくない“とおもいます。わたしも、事件のまえは、なんの疑問もなくそうかんがえていました。

 

 

わたしの高校時代の同級生に、とても勉強のよくできる男子生徒がいました。

ほとんど話したことはないのですが、周囲は“学年で一番のひとらしい“と噂していました。

ただ、一言でいうなら“理性的“、“冷めている“という雰囲気で、活発にひととコミュニケーションを取るタイプではありませんでした。


その同級生は、卒業後医学部に入り、医師になりました。

医師になったことは、人伝てに聞き、様子をたずねたところ、あまり高校時代と変わらない人との接し方であったようでした。

わたしは、“やっぱり医師というより科学者向きかも“などと、勝手なイメージを持ちました。


それから十数年が過ぎ、先日の事件のこともあって、ふと医師になった同級生のことをおもいだしました。

そして、子ども(成人しています)に、これこれこういうひとが同級生にいた、と伝えたところ、なにをおもったのか、苗字とわたしの出身県で検索して、当の同級生を見つけだしました。


一目見ただけで、当人とわかりました。

県内でも有名な大きな病院に勤務していました。


しかし、わたしがおどろいたのは、その風貌の変わりようです。

面影こそありますが、高校時代とはまったくちがい、穏やかな頼れる先生、といった雰囲気になっていました。目が格段に優しげなのです(シルバーバーチは、人の霊性は目に表れると言っていますが、それは多くのひとが実感している感覚と一致します)


高校卒業から数十年が経ち、その後の医師としての人生で、内面が大きく変化し、それが顔つきにも表れたのだとおもいました。

直接話したわけでもないのに、そのように感じるのは不敬かもしれませんが、直感的にそうおもいました。


そして、いままで抱いていた、“学力は高いけれども人間性に欠ける(欠けたように見える)ひと“に一方的なイメージを持っていることを、深く反省しました。

 

 

人間は誰一人の例外もなく、神の分霊を宿しています。

どんなに冷たく見えるひとでも、暖かい心、優しさ、良心を魂の奥に秘めています。

地上人生は、魂の奥にあるその神性を自分で見つけ、表に出し、他者に奉仕することが目的です。


進化の歩みがひとそれぞれまったくちがうので、神性が容易に出やすいひとと、出にくいひとがいます。でも、どうやって地上生活を生きるのかは、そのひと自身にかかっています。

わたしの同級生は、見事、その課題をこなしてきたのだとかんじました。

 

守護霊は、地上人の霊的進化をサポートするべく、母体に受胎した瞬間から、わたしたちを見守ってくれています。

“頭がよくて医者になる素質がある“のであれば、そのように導いてくれます。

なので、きっかけが“高い学力“でも、問題がないのです。

大切なのは、自分の資質をどういかすか、なのです。

 


医師として地域医療に多大な貢献をしている同級生の姿は、何事も、物的視点だけでみてはいけない、常に霊的視点でとらえるべき、という霊的真理の正しさをあらためて教えてくれました。


新型コロナ流行で、もしかしたら困難に直面しているかもしれません。

目に見えない世界は信じていないかもしれませんが、霊界から霊力が与えられ、ひとときの安らぎが得られるよう祈っています。

奮闘するその姿を想像しながら、わたしも、自分に課せられた仕事、霊的修行を怠らないよう、努力しようと決意しています。

 

常に霊的視点で見ることのむずかしさと大切さ

2022年になり、およそ半月が過ぎました。

年末年始はどうしても忙しくなり、多くのひとがゆっくりできるお正月でも家庭の主婦、主夫ともなれば、かえって普段より忙しい、というひとも多いのではないかとおもいます。

わたしもそうで、帰ってくる家族をむかえる準備に追われたり、お正月も三度の食事の準備とけっこうあわただしく過ごしました。


そうしていると、なんとなく身体の調子がおかしくなっているのに気がつきました。最初は、寒さで外に出ず運動不足になっているのか、あるいは日光を浴びていないせいか(ビタミンD不足)、とおもっていました。

たしかに、そういう要素もあるとおもうのですが、よくよくかんがえてみると、日常生活の視点が霊的なものから物的なものへと傾いていたせいでもあるとおもい至りました。

 


地上人の多くは体調不良を抱えています。

近年は若い世代でもストレスがあり、その解消のためにカロリー過多(必須栄養素の慢性的な不足)になったり、運動不足のひとが多く、決して健康的とはいえない状況です。

若いために肉体的なエネルギーが豊富にあるため、あまり決定的な病的状態にはなっていないでしょうが、これが40代、50代となると、深刻な病気を発症してしまうことにもなりかねません。


現代人全体にみられる”未病”状態は、日常生活があまりに物的視点に傾きすぎ、霊的視点(静寂のなかで自分を顧みること、真理に意識をそわせようとつとめること)がなくなってしまっているためだとおもいます。

体調不良はそのことを気づかせてくれるきっかけになります。

 

 

でも、しなければならないことや仕事が増えると、どうしてもそれにかかりきりになり、意識がつい霊的なものから外れてしまいます。

常に霊的視点を持つと言うことは、肉体を持っている地上人には、とてもむずかしいことです。


シルバーバーチもそのことによく言及していますが、忘れてはならないのは、むずかしいからこそ取り組んで克服していく価値があるということです。これは霊的なことにかぎらず、物的なことでも一緒ですね。

霊の宝は一足飛びに獲得できるものではないので、霊界の高級霊もそのような道を通って霊的成長を遂げてきたのだ(だから自信を持って断言しているのだ)とおもうようにしています。


わたしたちは常に霊的視点と物的視点のなかで揺れ動く存在だと、客観的に見つめつつ、より高い意識を目指して、日々努力しようと決意しています。

 

イエスの幽界降臨 2021年を振り返って

2022年になり、最初の記事を書こうとするとき、やはりおもいうかんでくるのは、昨年2021年の出来事です。

2021年は、2020年代最初の年ですが、これまでの二千年間をふりかえっても、霊的に最大級の出来事が起きた年でもあります。スピリチュアリズム普及会のサイトにて、八月と十月に衝撃的な霊界通信が発表されました。

 

インフォメーション No.39

地縛霊の救済は、スピリチュアリズムの使命です

   ――キリスト教聖職者の地縛霊と、スピリチュアリズムによる救済活動

 

インフォメーション No.40

「イエスの幽界降臨」と、クリスチャンの地縛霊の救済

   ――2021年から始まった、幽界における“大宗教革命”

 

エスによる地上伝道からほぼ二千年が経った昨年、イエス自身の幽界降臨という高級霊さえ予想していなかった出来事が起きました。

十字架上での刑死という悲劇によって、イエスは地上を去り、地球霊界の最上界で高級霊を通して地上人を導いてきましたが、そのあいだ、自ら地上圏ちかくに降りる準備をなさっていたのです。そして、霊界サイドと地上サイドの準備が整い、幽界降臨という奇跡的な出来事が実現しました。


インフォメーションでは、幽界降臨の目的は、幽界で長く苦しんでいるキリスト教徒の地縛霊を救うため、と述べられています。

 

 

地上人は死ぬと、肉体を離れ、まずは幽界に赴きます。

そこでは、地上臭、まとっていた肉体臭を捨てる期間を過ごします。

無事に霊的覚醒を得ると、霊界に行くことができますが、地上時代にあまりに物欲や地上的な価値観に囚われていると、霊的な目覚めが得られず、ずっと幽界に留まり続けます。これが俗にいう地縛霊(地上付近に縛りつけられている肉体のない人間)です。

幽界の下層、地上圏にちかいところには、地上人をはるかにうわまわる地縛霊がいて、地上人に影響を与えていますが、地縛霊自身も苦しみに苛まれています。(神の分霊を宿している人間は、神の摂理によって向上を運命づけられており、向上できないままでいることで、たいへんな苦痛が生じてしまうのです)

 

エスは地球霊界で最高の霊格を持つ高級霊です。

地上人からみると、高級霊はただ霊界の高いところにいるだけの存在のようにおもえますが、決してそうではありません。霊格が高いほど神からその霊格に見合うだけの責務が与えられるので、ごく自然に、悲劇にあえぐ地上人、地縛霊となって苦しんでいる人々を一刻でも早く助けたいと願います。(地上でも、真の人格者と呼ばれるひとほど、自分を忘れひとのために役立つ行為をしていますが、それをもっともっと霊的に拡大したイメージです)

 

エスは、二千年のあいだ、イエスの名のもとに地上で行われているキリスト教徒による残虐行為に幾度も涙を流されてきました。そして、悲劇に喘ぐ地上人を救いたいとスピリチュアリズム運動を興されました。

幽界下層にいる地縛霊救済はその一環であり、まちがった信仰(原罪説、贖罪説、三位一体説、サタンの存在など)を信じきったまま亡くなったキリスト教徒の地縛霊を、直接救いたいと願われたのです。(イエスほどの霊格の持ち主が地上付近まで降りるということは、わたしたちには想像できないほどの困難が伴うそうです。そうまでしても、なんとしても救いたいという深い愛をかんじます)

 

なぜ真実ではない信仰を持ちづつけると苦しみが生じるのでしょうか。それは、頑なにまちがった教説を信じることによって、霊的な牢獄に自らを閉じこめてしまうからです。


キリスト教は、どこまでも聖書に主眼を置き、今現在のイエスがどういう活動をなさっているのかについては、言及できません。しかしスピリチュアリズムでは、霊界のイエスはこの今も、積極的にすべての人類の救済に向けて働きかけていると、断言しています。


二千年分のイエスの思いが、幽界降臨に結びつき、イエスの姿を直接拝した多くのキリスト教徒の地縛霊は、瞬時に霊的覚醒を得て救われました(=霊界入りの準備の段階に入った)

エスは、まずは、キリスト教徒の地縛霊を救われたのです。

 

今回のインフォメーションでは、主にキリスト教徒の地縛霊について言及されました。

ただ地縛霊は、狂信的なキリスト教徒だけではありません。

イスラム教、仏教、ヒンズー教を信じている者、日本では新興宗教の信者も大勢います。

 


インフォメーションを読むかぎり、イエスの幽界降臨で救われたのは、純粋な信仰を持った聖職者や彼らに従っていた信者たちです。おそらく、まちがった信仰を持っていたということ以外には、善良なキリスト教徒だったのでしょう。

何百億といる地縛霊のなかで真っ先に救済の対象になり、苦しみを通して霊的覚醒の時期に至ったのは、そのあたりに原因があるのではないかとわたしはかんがえています。(言い換えれば、まちがった信仰を持ち続けることの恐ろしさを示しているといえます。生前聖職者であっても利他愛に徹したマザーテレサのようなキリスト教徒は、死後まもなく過ちを悟り、スピリチュアリストになっています。キリスト教徒でなくても、無神論者でも、利他愛に生きたひとは霊的覚醒を得るのが早いようです。シルバーバーチは、”ラベル”は関係ない、そのひとが生前どのような行いをしていたかが重要です、と述べています)

 


今後、他の宗教を信じている地縛霊も救済の対象になることでしょう。

インフォメーションNo.40では、イスラム教徒、ヒンズー教徒も登場しています。

おそらく、仏教徒無神論者もいずれ救われていくとおもわれます。


そうやって幽界全体に霊的光がゆきわたり、結果的に幽界下層と深い関係にある地上にも好影響が出てくるでしょう。

わたしたちスピリチュアリストにも、地上での霊的普及に努めたり、世界全体の不幸に対して祈りを続けていくことが求められています。

地上人は五感でしか世界の状況をとらえられませんが、実際には数多くの霊界人が幽界下層の地縛霊や苦難に喘ぐ地上人を救おうと、懸命に努力をしてくれているのです。

 

ナザレのイエスとキリスト教

 今年にはいって、スピリチュアリズム普及会のインフォメーションにて、イエスのことが数回にかけて取りあげられています。そのことがきっかけで、スピリチュアリズムでのイエスの重要性について、わたし自身深くかんがえるようになりました。


 霊的真理に導かれたスピリチュアリストであれば、現在霊界主導で展開されている地球人類救済計画(スピリチュアリズム)の総指導者がイエスであることを知っています。しかし、多くの日本人は、クリスチャンでもないかぎり、紀元前後にパレスチナで生きたキリスト教を起こした人物としか認識していません。イエスは歴史上の人物であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。


 わたしも、シルバーバーチの霊訓を読みはじめた当初は、イエスをさほど重視していませんでした。スピリチュアリズムもこれまで欧米で展開されてきたこともあって、西欧世界での宗教革命なのではないかとおもっていました。

 シルバーバーチも、イエス神の摂理から離れてしまった当時のユダヤ社会を摂理に沿ったものにするために降誕したと述べています(しかし、イエスは死後進化し、現在はスピリチュアリズム運動を進める総責任者として霊界で活動しています)

 

 

 地上はキリスト教世界だけで構成されているわけではありません。アラブ、アフリカ、インド、東アジア、南北アメリカに元から住むネイティブなど、多種多様の民族で構成されています。それぞれに宗教や文化を持ち、今日まで発展してきました。


 日本人は昔から仏教を信じてきたので、お釈迦さまへの親しみはイエスを凌駕しています。先祖を敬い祀ることにも熱心ですし、多くの人が節目節目に神社仏閣に詣でています。そのような精神的土壌のある日本人に、イエスが地球霊界の最高霊だと伝えても、反発を覚えるひとが多いことは想像に難くありません。


 ではどうすれば、イエスの真実の姿を伝えることができるでしょうか。

 そのためには、スピリチュアリスト自身がイエスの教えを正確に理解していなければなりません。後世で脚色されていない純粋なイエスの教えを知り、それがスピリチュアリズムであること、人類史上最も優れた教えであることを認識することが必要だとかんがえます。理性的に、イエスと、釈迦やそのほかの宗教者、霊覚者を分析することが必要です。

 

 キリスト教はよく愛の宗教と言われます。神への愛、隣人への愛を最高とします。現実世界では西欧は宗教戦争が多発しましたが、それは人間の利己主義から出たものであって、本来のイエスの教えからはかけ離れたものです。聖書を原点とするキリスト教徒ならば、どの宗派であっても、心の奥では敵への愛を示さなければならないとわかっているはずです。シルバーバーチも、キリスト教徒はイエスを讃えながら、イエスを裏切り続けていると述べています。

 イエス自身、地上にあっては、自らを捕らえ処刑しようとする者に対してまったく抵抗せず十字架にかかりました。右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ、を身をもって体現されました。敵を愛することを実行されました。それを今から二千年もまえになさったことに、わたしは衝撃を受けます。


 では、釈迦についてはどうでしょうか。釈迦も人々が苦しみ悩む姿を見て自分と同じような境地(解脱)にたどり着いてほしいと布教を行いました。そこには利他愛の精神が見られます。ただ、イエスのような自分を滅して他者に尽くすという姿勢はあまりありません。苦しみについても、その意義を認めるのではなく、そこから如何にして逃れるかに主眼が置かれています。自分の心を省みるという視点に立ったとき、イエスは他者本位、釈迦は自己本位なのだといえます。


 このようにイエス霊性と釈迦の霊性のくらべてみると、やはり格段のちがいを認めることができます。自分を投げうって人のために尽くすという人類最高の霊性の高さをもっとも体現したのは、イエスだということがわかります。シルバーバーチは、霊的真理を完璧に理解し、実践したのはイエスしかいないと述べています。

 

 そして、日本人がとくに意識しなければならないのは、世界で信仰されているキリスト教の教え、教義がそのままイエスの教えであるとはかぎらないということです。二千年前にイエスが説いた教えそのものはシンプルでしたが、後世の人間によって脚色され、他の民族の伝説や神話が取り込まれたり、難解な神学がつけ加えられてしまいました。日本はキリスト教化しなかった国だからこそ、客観的にイエスの教えとキリスト教のちがいを他の民族に先んじて理解することができるはずです。

中国という国とどう向き合うべきか

 中国共産党が党創立百周年を迎えました。中国では共産党主導で大々的な祝賀キャンペーンが行われたそうです。東京オリンピックでも、米国と金メダルの数を争い、百周年に花を添えようと選手を異常な熱気で鼓舞したそうです

 

 中国共産党は、共産主義の名を掲げていますが、本質的に中国伝統の王朝であり、毛沢東、鄧小平、習近平は実質上皇帝に位置します。このあたりは、高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書)にくわしく書かれています。(高島氏は、中国共産党について、日本人としてもごく早くからその本質を見抜いておられました)

 

 習近平国家主席は、記念式典において、欧米からの圧力に屈しないという意思を明確にアピールしました。国内に問題が山積している中国首脳部にとって、強弁な姿勢に出ることは、国民の目を外に向けるためであることは明白です。と、同時に、中国人、主として漢民族に対して、民族の誇りに訴えているとおもわれます。

 

 十九世紀後半以降、中国(清王朝中華民国中華人民共和国)は、国の弱体化に漬け込まれ、欧米列強、ロシア、加えて文化的に下と見ていた日本にいいように引っ掻き回されました。東アジアの雄として、数千年にわたって君臨し続けた漢民族には耐え難い屈辱であったろうとおもいます。また、太平洋戦争後、敗戦国から経済的に復活した日本に先を越され、昭和戦後の時代、多くの日本人が中国人を見下しました。漢民族はそのことを決して忘れていないでしょう

1980年代前後から、欧米、日本の資本が安い労働力を求めて中国に進出したときも、いずれは、これらの国に堂々と対等に渡りあえるくらいの国力をつけてやる、と決意していたに違いありません。

 

 昔、歌手のさだまさしさんが中国に行った折、現地の人に少し意地悪い質問をされました。さださんは、いま発展途上の中国が今の日本に追いつくには何年かかりますか、と聞いたそうです。そのとき返ってきた答えは、五十年くらいでしょうか、だったと記憶しています。

 日本人にとっては、五十年は長いとかんじますが、歴史のある漢民族にとっては五十年はさほど長いともおもわないのかもしれません。その気の長さと自国に対する自信をあらわしているようにおもいます。

 あれから数十年経ち、そのときの言葉以上の状況が現実になっています。歴史を俯瞰すれば、中国がその国名通り、中華であった時代のほうが圧倒的に長く、日本人から下に見られていた時代はごく一時期であることは明白です。そして、中国共産党は、今までの政権(王朝)が成さなかった(成しえなかった)、世界全体に君臨する国家、民族になるべく、猛進しています。アメリカ合衆国に取って代わることは、共産党にとって悲願といえます。

 

 ですから、今後も、よほどのことがないかぎり、中国国内はしばらく中国共産党主導の体制がつづくでしょう。共産党は自国民の国民性(自分たちの生活さえきちんと送ることができたら、政権、トップはたとえ異民族でも関係ないこと)や、中国内の諸問題を熟知しています。権力維持のために手段は選びません。世界でもトップクラスの監視網を早急に構築しました。

 

 ただ、中国は一党独裁をとっているために、国内に政治的な競争相手がいません。つまり、批判したりブレーキをかける役割を担う者がいないのです。わたしは、ここが歴代王朝との決定的違いだとかんがえています(一党独裁体制を敷いたのは、多分に初代皇帝毛沢東の性格によるものとおもいます)

 

 加えて、中国人(漢民族)の民族性があります。彼らは非常に現実主義的な性格です。物的豊かさを求める気質が強く、自己主張をします。自分の利益になることにとても敏感だと言えます。日本人は赤の他人のために尽くすことを美徳とかんがえますが、漢民族は身内を非常に大切にし、内と外を峻別する傾向があります(この点については、これまでの前近代中国の国家機能を考慮すべきなのかもしれません。警察機構や福祉などがほとんど存在せず、身内でなんとかしなければならなかった状況があります)

 そして中華思想の国です。数千年も「自分たちは世界の中心」と思ってきたのですから、西欧人(白人)よりも根深い民族主義的な傾向があるかもしれません。清王朝が長く中国を統治できたのも、歴代皇帝が漢民族の制度、文化を受けいれたからです(戦前の日本が統治に失敗したのはこの点がなかったためといえます) 漢民族の歴史は北方異民族の侵攻をどう防ぐかの歴史でもありますが、支配者層として異民族が君臨しても、実質上他民族の文化文明は中国大陸に広がりませんでした(戦前の日本人はこの点を理解していなかったために大陸進出という愚策を進めてしまいました)

 

 スピリチュアリズムで見ると、非常に物質中心主義の傾向があります。

 あの世が(死後の世界)あるのは信じていますが、この世(物質世界)の延長線上のものとかんがえ、やはり食べものやお金が必要だとおもっています。(高島氏によれば、あの世で飢えないことが、民族最大の徳目、孝、を生んだのだそうです)身内と自分をなによりも大事にするかんがえかたは、この世を生きていくうえでは有利に働きますが、霊的にみると、非常に残念な価値観です。おそらく中国共産党は、中国人のこの「身内」のかんがえかたを国家にまで広げてとらえ、自国民に植えつけようとしているのではないでしょうか。

 

 このような中国に、わたしたち日本人、世界の人々はどう対処していくべきか。

 スピリチュアリズム普及会では、去年、「新型コロナウイルスによる災禍とスピリチュアリズム」と題したインフォメーションのなかで、中国共産党の利己性、排他性を痛烈に指摘しました。

 そこで述べられているように、新型コロナウィルスの世界的な流行は、人々を不安に陥れましたが、中国共産党の野望を先進国の国々に知らしめるきっかけにもなりました(それに先立つトランプ氏の米国大統領就任はその資金石になったといえます)多くの日本人も、中国共産党の真の目的(世界に君臨する中国)を知ることになったとおもいます。

 

 中国にとって、地政的にみて、日本という国土は、太平洋に出ていくうえで、戦略的に非常に重要な場所です(残念ながら、沖縄はその最たる場所に位置しています。台湾も同様です)彼らが尖閣諸島に自国の漁船や軍艦を派遣するのは、資源だけではなく領土的野心があるからにほかなりません。現在は米軍が駐留しているため露骨な態度に出てくることはないでしょうが、今後縮小あるいは撤退した場合、野心を剥き出しにしてくることは必至です。それまでに、なんとか自国と台湾、フィリピン、あるいはオーストラリアなどの周辺国と連携して防衛網を張る必要があるでしょう。

 

 経済的には、中国依存を早期に脱する必要があります。そのためには、消費者として中国製はなるべく買わないようにする行動を取るべきです。最近は店に行っても中国製しか置いていない商品も多いのでなかなか難しいことではありますが、できることからやっていくべきとおもっています。

 これからの社会は、今までのような経済至上主義では完全に行き詰まります。企業は利益ではなく、人の役に立つことを第一に活動すべきです。短期的には苦しくても、摂理に沿った活動は、必ずやよい結果に結びつくはずです。そういう企業を応援していきたいとおもいます。

 

 

 そして、スピリチュアリズムの普及です。世界的に見て、今いちばんハイレベルなスピリチュアリズムが起こっているのが日本です。もしかしたら、霊界は中国の台頭を見越して、日本にスピリチュアリズムを普及させようと意図したのかもしれません(日本人の気質がスピリチュアリズムに合っているという面もあります。おもえば18世紀から20世紀にかけてイギリスが置かれたポジションと歴史的にみて共通点があるような気がします)

 今後、十年、二十年が経ち、一層スピリチュアリズムが広がれば、中国や東アジアにも好影響を及ぼすにちがいありません。霊界が支援していることを信じ、日本人の霊性向上に貢献していきましょう。

 

真理の実践

シルバーバーチの霊訓に出会い、霊的真理の重要性を理解し、スピリットヒーリングを受けて霊界の存在を確信したとしても、真理の実践は安易(やすやす)とは進みません。

最近、それをとくに実感しました。

 

わたし自身の体質が天候に左右されやすいこともあり、季節の変わり目は体調のコントルールがうまくいきません。

くわえて、離れて暮らす家族のことが心労になり、またしても自分の不安との戦いがはじまってしまいました。

 

シルバーバーチは、霊的進化のためには苦しみがぜひとも必要だと述べています。

スピリチュアリズムを知ったからには、それが真実だと理解しているのですが、いざ大きな困難に見舞われると、つい物的身体の重さに耐えかねてネガティブな感情を持ってしまいます。

 

これまで何度か同じような困難に遭い、そのたびに霊的真理にすがって乗り越えてきましたが、また似たような堂々巡りの心配に襲われて、進歩がないなと自嘲気味でした(~_~;)

 

今回も、これまで読んで感動した霊訓の一節をくりかえし読んだり、スピリチュアリズム普及会のサイトを再度熟読し、なんとか乗り越えました。

 

シルバーバーチは、霊的進化は螺旋階段のようにあがっていくもの、と言っていたと記憶しています。三歩進んで二歩下がるような一歩一歩のあゆみです。

ただ苦しみのさなかにいるときは、二歩進んで三歩下がっているような感覚で、本当にこの苦しみが進歩になっているのか、確信が持てませんでした。

もちろんシルバーバーチの霊訓を疑っているわけではないのですが、霊的感覚があまりにもないためにどうしても物的視点になりがちです。

かくも肉体とは重いものかと、思いしりました。

 

そんななかでも、あの高級霊のかたがたでさえも、きっとこの苦しみを克服してこられたのだ、乗り越えられない試練は絶対にない、試練が起こった時点で乗り越えることが神によって保証されている、と何度も何度も自分に言い聞かせました。

スピリチュアリストの末端にいる者として、苦しみを甘んじて受けよう、霊的真理を実践するチャンスだ、と前向きにとらえようとしました。

 

そうやっていると、一日のなかでも浮き沈みがあることがわかりました。

霊的に上向いたかとおもうと、時間とともに地上的な価値観がのしかかり、気分が沈みます。なかなか、心の底からありがたいとおもうことができません。

本当に、自分の心とはこんなにもままならないものかとおもいました。

 

性格的に、とかく取り越し苦労の多いたちなので、自己を律するが大変です。

 

まだ状況が完全によくなったわけではないのですが、そうやって三週間近くを過ごしました。

いま現在は、心の支(つか)えがひとつなくなったことで、少しほっとしています。(ずっと坂道ばかりではありません。神様は踊り場で一息つけるよう計らってくださるのだとおもわれます)

 

ただ、困難が過ぎ去ってみると、衷心からの祈りというのは、苦しみを抱えているときこそできるものだというのがわかりました。

心配ごとがなく心が晴れやかなときは、強く意識して霊的視点を保たないと、肉体も重さゆえに物的視点になりがちなのです。

悩みごとがありながらも、一点の曇りもなくあかるく上を向いていければ理想だとおもいます^^;

本当にむずかしいのですが、苦しみを苦しみと感じない境地をめざして、平穏なときこそ自分を高める努力をしていきたいとおもっています。

自殺について

日本では、自殺をする人が交通事故死の4倍以上だそうです。

去年、乗ろうとしていた電車で人身事故が起きました。
ホームに降りるべく階段を降りようとしたとき、ものすごい警笛が聞こえて列車が急停車しました。
すぐに駅員のかたがブルーシートを持ってホームに走っていかれました。
はじめて間近で出会った光景だったので、衝撃的でした。

 

首都圏では、日々、どこかの路線で人身事故が起きていて、多くの人が慣れっこになっている状態です。

このような状況だと、家族や親戚に自殺したひとがいるかたも多いのではないでしょうか。
ずいぶん昔になりましたが、わたしもその一人です。

 

ひとたび遺族になると、普段と変わりない生活を送っていても、命を絶った身近な人のことが常に頭にあり、心が休まらないことでしょう。
本当に、つらいことだとおもいます。

 

自殺はいけない。 もちろん誰もがわかっていることです。
誰しも、死にたくて生きてはいないでしょう。
生き物として生まれたからには、本能的に生存欲求があります。
また、霊的に見ても、自ら命を経つことはいけないことだと直感しているはずです(だからこそ、個人にも社会にも、自殺に対して大きな葛藤があるのだといえます)

 

殺人や自殺はなぜいけないのか 養老先生の回答 | デイリー新潮

この記事には、なぜ自殺がいけないのか養老孟司さんの見解が書かれていますが、要点をまとめると、次の二点になります。

1. 人間をつくることができないから、人間を殺す(自殺も含む)ことはいけないことだ

2. 自殺をすると、家族や周囲に多大な負の影響を与えてしまうから、やってはいけない

 

理屈では養老さんの言う通りだとおもいます。
でも、自殺するひとにどれだけ響くのか、とかんがえると心許ない気がします。
きっと、もっともらしい理由をつきつけてくる相手に絶望するとおもいます。
自殺念慮のあるひとは「あなたにはこの苦しみがわからない」という意識に支配されていて、視野が狭くなっており、精神的なエネルギーが枯渇しています。
そういう状態のひとに、理性的な説得はなかなか困難です。
そして、おそらく衝動的に行動に出てしまうのだとおもいます。

 

叔父が亡くなったのはわたしが中学生のときでした。

本人が自殺したあとの家族の混乱を目の当たりにしました。
みなが動揺して、苦悩している様子は今でもはっきり覚えています。
病気などの死とは全く別の重苦しい空気でした。

 

そんなわたしでさえ、苦しいときは、死んで楽になれるものならなりたい、とおもいました(心労からのストレスで眠れない日がつづいたときなどです)
自分が死んできっと家族は悲しむだろうが、それは、家事などをやってくれる(便利な)人間がいなくなるに過ぎないからではないか、などと、おもったりしました。
極端な話になりますが、自分を尊重するのであれば(愛してくれるのであれば)、この死にたいという気持ちを尊重して、好きにさせてくれ、と投げやりにも似た気持ちも生まれてきます。
落ち着いた今かんがえても尋常ではない思考に陥っていました。

 

どうやったら自殺するひとが減るのか、一時(いっとき)でも死にたい(いなくなりたい、楽になりたい)とおもった経験のあるわたしは、常に模索しています。

 

まず、多くのひとに知ってもらいたいのが、霊的な事実です。
「死んだら無になる」
こうおもっているからこそ、死ねば楽になる、とおもうのです。

しかし、生命を持って生まれた以上、身体はなくなっても精神、霊は生き続けます。そして、必ず後悔します。(霊的な話で、自殺したひとが現場を彷徨っている話、自殺念慮のあるひとに憑依してしまう話は、個別なケース云々はともかく、一般的なこととして事実だとおもわれます)

自殺するひとをこれ以上増やさないために、「自ら死を選ぶと、もっと苦しい状況になってしまう」ということを一刻も早く社会に広めなければなりません。

 

シルバーバーチは、ごく少ない例外を除けば、自殺は絶対にいけないことだ、と述べています。生まれるまえに、自分で決めた課題を途中で投げ出すことは、神との約束を破ることになる、過ちを犯すと取り返しがつかなくなり(生き返ることは不可能)、因果律自然法則)によってさらなる苦しみを負うことになる、と忠告しています。

 

苦しい状態がつづくと、一刻も早く逃れたいとおもってしまいます。
でも、どうにかして耐えて、一日、一日を生きることが大切です。
自分にできることを何かやってみる、歯を食いしばってでも日常生活は送る、など、必ずできることがあります。
そのような取り組みを、神や守護霊は見守ってくれています。
そして、一皮一皮むけるように、状況はよくなっていきます(経験者なので断言できます)
そして、気がついたら、「死にたい」という気持ちから抜け出している自分になっています。

 

霊的なことが受け入れないかたであれば、死にたいとおもっていたけれども抜け出せたひとの体験談を読むのもいいとおもいます。
ネットにはよく、成功したひとの苦労話が掲載されていて、その中には、自殺を図ってさいわいにも未遂になり、立ち直ったかたのものもあったりします。

 

苦しい時間は、永遠にはつづきません。
短いひともいれば、長いひともいて、一概に、すぐによくなると気休めは言えませんが、変化は必ずあります。
そして、乗り越えてみると、苦しかったときがあったからこそ、今の自分がある、とおもえるようになります。

シルバーバーチは、あとから振り返ってみると、苦難や苦しみこそが自分を成長させてくれたとして神に感謝するようになります、と言っています。

その言葉にすがり、地上人生を全うすることが、わたしたちに与えられた課題なのです。