霊的真理とともに歩む

──真のスピリチュアリズム普及のために

ナザレのイエスとキリスト教

 今年にはいって、スピリチュアリズム普及会のインフォメーションにて、イエスのことが数回にかけて取りあげられています。そのことがきっかけで、スピリチュアリズムでのイエスの重要性について、わたし自身深くかんがえるようになりました。


 霊的真理に導かれたスピリチュアリストであれば、現在霊界主導で展開されている地球人類救済計画(スピリチュアリズム)の総指導者がイエスであることを知っています。しかし、多くの日本人は、クリスチャンでもないかぎり、紀元前後にパレスチナで生きたキリスト教を起こした人物としか認識していません。イエスは歴史上の人物であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。


 わたしも、シルバーバーチの霊訓を読みはじめた当初は、イエスをさほど重視していませんでした。スピリチュアリズムもこれまで欧米で展開されてきたこともあって、西欧世界での宗教革命なのではないかとおもっていました。

 シルバーバーチも、イエス神の摂理から離れてしまった当時のユダヤ社会を摂理に沿ったものにするために降誕したと述べています(しかし、イエスは死後進化し、現在はスピリチュアリズム運動を進める総責任者として霊界で活動しています)

 

 

 地上はキリスト教世界だけで構成されているわけではありません。アラブ、アフリカ、インド、東アジア、南北アメリカに元から住むネイティブなど、多種多様の民族で構成されています。それぞれに宗教や文化を持ち、今日まで発展してきました。


 日本人は昔から仏教を信じてきたので、お釈迦さまへの親しみはイエスを凌駕しています。先祖を敬い祀ることにも熱心ですし、多くの人が節目節目に神社仏閣に詣でています。そのような精神的土壌のある日本人に、イエスが地球霊界の最高霊だと伝えても、反発を覚えるひとが多いことは想像に難くありません。


 ではどうすれば、イエスの真実の姿を伝えることができるでしょうか。

 そのためには、スピリチュアリスト自身がイエスの教えを正確に理解していなければなりません。後世で脚色されていない純粋なイエスの教えを知り、それがスピリチュアリズムであること、人類史上最も優れた教えであることを認識することが必要だとかんがえます。理性的に、イエスと、釈迦やそのほかの宗教者、霊覚者を分析することが必要です。

 

 キリスト教はよく愛の宗教と言われます。神への愛、隣人への愛を最高とします。現実世界では西欧は宗教戦争が多発しましたが、それは人間の利己主義から出たものであって、本来のイエスの教えからはかけ離れたものです。聖書を原点とするキリスト教徒ならば、どの宗派であっても、心の奥では敵への愛を示さなければならないとわかっているはずです。シルバーバーチも、キリスト教徒はイエスを讃えながら、イエスを裏切り続けていると述べています。

 イエス自身、地上にあっては、自らを捕らえ処刑しようとする者に対してまったく抵抗せず十字架にかかりました。右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ、を身をもって体現されました。敵を愛することを実行されました。それを今から二千年もまえになさったことに、わたしは衝撃を受けます。


 では、釈迦についてはどうでしょうか。釈迦も人々が苦しみ悩む姿を見て自分と同じような境地(解脱)にたどり着いてほしいと布教を行いました。そこには利他愛の精神が見られます。ただ、イエスのような自分を滅して他者に尽くすという姿勢はあまりありません。苦しみについても、その意義を認めるのではなく、そこから如何にして逃れるかに主眼が置かれています。自分の心を省みるという視点に立ったとき、イエスは他者本位、釈迦は自己本位なのだといえます。


 このようにイエス霊性と釈迦の霊性のくらべてみると、やはり格段のちがいを認めることができます。自分を投げうって人のために尽くすという人類最高の霊性の高さをもっとも体現したのは、イエスだということがわかります。シルバーバーチは、霊的真理を完璧に理解し、実践したのはイエスしかいないと述べています。

 

 そして、日本人がとくに意識しなければならないのは、世界で信仰されているキリスト教の教え、教義がそのままイエスの教えであるとはかぎらないということです。二千年前にイエスが説いた教えそのものはシンプルでしたが、後世の人間によって脚色され、他の民族の伝説や神話が取り込まれたり、難解な神学がつけ加えられてしまいました。日本はキリスト教化しなかった国だからこそ、客観的にイエスの教えとキリスト教のちがいを他の民族に先んじて理解することができるはずです。