今年の七月八日に起きた、旧統一教会に恨みを持つ者による安倍元首相の襲撃事件は、社会に大きな衝撃を与えました。
首相経験者だった政治家に対する警備の甘さを指摘する声も大きいものですが、なによりも、かねてから問題視されていた新興宗教にかかわる事件として、多くの日本人が注目しています。
スピリチュアリズム普及会のインフォメーションにもその問題の本質がくわしく取りあげられています。
インフォメーション no.45
「霊的観点から見た安倍元首相殺害事件と、統一教会の本質と教義(統一原理)の間違い」(スピリチュアリズム普及会)
旧統一教会のまちがいが的確に指摘されています。
霊的視点からみてどこがまちがっているのかがわかります。
地上人は物的視点からでしか問題の原因に迫れませんが、地上の問題の本質は霊的なところにあります。ですから、霊的視点から物事を見なければ、根本的な解決には至れません。
霊界人が、常に霊的観点を失わないように、と何度も教えてくれるのは、そのことがあるからでしょう。
霊的にみて、旧統一教会の最大の間違いは、その教えが真理とはかけ離れたものであることと、インフォメーションは指摘しています。
統一原理(統一教会の教義)は教祖が頭のなかで作り上げたものであり、キリスト教や東アジアで顕著な先祖信仰などを取り入れた雑多なものなのだそうです。
韓国はアジアでも有数のキリスト教徒が多い国なので、教義の中心に据えたのだろうとおもわれます。
地上視点からみて、今回の事件で注目されているのは、多額の献金を求める姿勢や霊感商法を使いモノや金を信者から巻きあげたという点です。
今回はこの点に注目して、かんがえてみたいとおもいます。
宗教が持つ問題点、地上人が抱える課題がみえてくるとおもったからです。
なぜ、多額の献金など行為が宗教の名のもとに行われたのでしょうか。
第一義的に、教団側(宗教組織の側)が求めたのはまちがいであることはいうまでもありません。
しかし、信者のほうも率先して献金を行ったという事実があります。
洗脳や半強制的な面もあったとおもいますが、わたしは、信者が自由意志で教団に貢いだということを重視したいのです。
それは、わたし自身がかつて新興宗教の団体に属していたとき、身をもって感じたことだからです。
わたしは10代後半ごろ、母親の勧めもあって崇教真光に入信しました。
母は妹の病気平癒を願いその数年まえに入信しています。
崇教真光をはじめ世界真光文明教団など、真光系の教団は手かざしによる心身の浄化を重視します。手かざしによって病気が治り健康になれると宣伝しています。
そこに、病気に苦しむ人はすがるように押し寄せます。
現代医学でも治らない、あるいは医学にかかっているのに慢性的に病気がつづく場合、医学に対する不信感が募り、“手かざしで奇跡が起き、病気が治る“と言われれば、それを期待して、信者になるのです。
そして、実際、病気が治ったりよくなったりする人が大勢います。この点がポイントで、手かざしでなんの変化もなければ信者は増えていきません。
手かざしでよい変化があるからこそ、“本物の教え“だとおもい、拠点に通うのです。
(このことについて、スピリチュアリズムの視点からみてみると、人間にもともと備わっているヒーリング能力が治癒力となって現れているのだとかんがえられます。真光では“お御霊“というペンダントのようなものを研修を受けてもらい、それをつけて手かざしをするのですが、“お御霊がなければ手かざしできない“とおもってしまうのは、そう思いこまされているからだといえます)
そうして信者となった者は、自ら率先して教団の活動に努め、献金を要求されれば言われた通りにお金を差し出すことになります。
わたしが見たかぎりでは、信者の意に反する強制はありませんでした。
ただ、そこが盲点で、教団側はそのように信者を誘導しているのであり、“自発的に献金や奉仕をさせる“ことを重視しているとおもわれます。
では、なぜ信者は“自ら信じるのか、信じたがるのか“といえば、目的ははっきりしています。
“自分や家族が救われたいから“です。
病気を治してほしい、金銭的に楽になりたい、トラブルがなくなってほしい、幸せになりたい、その一心があるからです。
つまり、この世的な幸せを手にしたくて、宗教を信じるのです。
これは真光系や新興宗教にかぎったことではなく、キリスト教、仏教、神道、民族宗教、なんでも同じだとおもいます。
地上人が宗教に求めるのは、とどのつまり“ご利益“です。
もちろん宗教側も、ご利益信仰にとどまらないよう、世界平和とか、人間と自然の共存、環境保全、動物愛護など、さまざまな“つけたし“を用意していますが、結局は「わたしたちの宗教を信じれば、この世でもあの世でも救われますよ」という“餅“をかかげています。
わたしは、人が宗教にそのようなご利益を求めることを、非難はできません。
自分もかつてはそうでしたし、スピリチュアリズムを知ったのも自分の問題をなんとか解決したかったからでした。
誰もが、健康になりたい、豊かになりたい(昔なら、食べものに困らないようになりたい)、家族が仲良くいてほしいと願っています。
それ自体を咎めることができる人はいないでしょう。
しかし、宗教の問題は、そのような人間の願望につけこんだ、自分たちの宗教を大きくし他より抜きん出たいという組織のエゴにあります。組織の利己主義が個人のご利益信仰を利用しているといえます。
崇教真光では、個人の献金を奨励していました(現在はどうかは知りません)
ご奉納といい、なにかにつけて、数千円を包んで神前に捧げていました。
“救われたのだから、お返しをしなければならない“という空気が支配的でした。
広報誌(真光誌といいます)で読んだところによると、家や土地なども含め財産のほとんどを寄付した人もいたようです(救われたくて寄付したということだったかと)
教義で、“モノやお金に執着してはいけない“と説きながら、教団自体が金銭を要求するとは、矛盾以外のなにものでもありません。
このように、統一教会と同じような構図が既存の宗教には蔓延しています。
神社では、神前でのお祓いにお金が必要です。
厄祓いには数千円かかるそうです。
また、人が死んで戒名をつけるのに、院号が欲しければ、数十万円と聞いたことがあります。
新興宗教が要求する献金と、どこがちがうのかわたしには理解できません。
本来宗教は、必要以上のお金が絡むものではありません。
しかし、いつのころからか、宗教は信者に対して多額のお布施や奉納を要求してきました(大きな神社に行くと、奉納の額によって建っているもの大きさが異なるのを目の当たりにします)
新興宗教はある意味、伝統宗教が行なってきたことの真似をしているのであり、ご利益信仰を基盤にしているのは明白です。
それは、地上人の誰もが持っているこの世的な願いをくすぐって、信者を集め、勢力を拡大しようとする目的があるからなのです。
https://spiritualism.jp/silverbirch/philosophy/phl-13.html
「シルバーバーチの霊訓の画期的な救済観」(スピリチュアリズム普及会)
https://spiritualism.jp/information/2022/info-044-2.html
「インフォメーション no.44-2 イエスから地上の全宗教指導者に向けてのメッセージ」(スピリチュアリズム普及会)